仏教は、ひとつのカルチャーだった。

ワダ:
今回のクエストカフェは、藤田一照さんのインタビューと言うことで、葉山の茅山荘におじゃましています。今日は、よろしくお願いします。
藤田:
はい、よろしくお願いします。遠路はるばる、ありがとうございます。
ワダ:
さて、一照さんについてですが、どのようにご紹介したら良いかなと思いながら、曹洞宗の禅のお坊さんと言ってしまえば、そうなんですが・・・笑
藤田:
はい、それが一番無難でしょうね〜・・・笑
それで、皆さんが、どんな意味で取るかはわからないけど。
ワダ:
そうですね。でも、僕にとっては、何かお坊さんというイメージがわかなくて。
藤田:
みんなそう言いますよ。
ワダ:
一照さんは、お坊さんであることを意識してないようにも思うんですが、いかがですか?
藤田:
どうですかね〜笑 普段もこういう格好で、めったに衣とかは着ないですからね。
座禅も作務衣でやってるし、お坊さんに会うときだけ、お坊さんっぽい衣を着ます。
ワダ:
写真などで、一照さんのそういう姿を見ると、あっ一照さんって、やっぱりお坊さんだったんだなって。。。笑
藤田:
普段見慣れていない僕の正装というんですかね。こういう姿を見ると、カッコイイってびっくりするので、孫にも衣装っていうかそういう感じで、、、笑
ワダ:
そもそも、活動をされている軸が違うというか、幅が広いですよね。
藤田:
そうですね。僕が他のお坊さんと違うのは、お寺に生まれていないのに、わざわざ自分で自発的に出家したっていうことですよね。そういう方が、そもそも非常に少ないでしょう。
ワダ:
そうなんですね。禅では一般の方が修行できるようなものがあり、一般のお寺さんにはそういう仕組みがないようなイメージなんですが。
藤田:
例えば、永平寺だと、2泊3日とか、もうちょっと長いものとかで、一般の人がプチ出家みたいな、生活は雲水さんに近いような生活が体験できるコースみたいなのがありますね。
ワダ:
そういうのは、例えば、真言宗とか法華宗、日蓮宗とかにもあるんでしょうか?
藤田:
どうかなぁ、高野山なら1泊修行体験とか、たぶん他の宗派も何らかの形でリニューアルしていかないと、これからの若い人にアピールできないので、そういうのはいろいろなところでしていると思いますよね。
曹洞宗なんか、わりと熱心なんじゃないんですかね。やり易いコンテンツを持ってるっていうことも言えるかもしれませんね。
ワダ:
禅っていうのは、自分を見つめるような。
藤田:
精神鍛錬みたいなイメージがあるからね。
ワダ:
そんな感じで、あまり仏教というイメージがないんです。
藤田:
なるほど。
ワダ:
禅は禅、仏教は仏教みたいな。
藤田:
なんかアメリカの人も、そういうイメージを持ってる人もいるかも知れないですよね。
仏教というのは今は違うけど、昔は「ブディズム」っていうのは英語じゃないですか、仏教のっていうよりは「禅」って言った方が受入れやすいっていう風潮はありましたね。
ワダ:
禅のお坊さんは、お経とか読まないイメージがありますしね。勝手なイメージですが。。。笑
藤田:
じゃぁ「仏教」はどんなイメージなんですか?
ワダ:
仏教は、そうですね〜やっぱり、法要とか。。。お経を読むって感じでしょうか。
藤田:
仏壇とか棺桶とかに向かって。
ワダ:
そうですね。
藤田:
「禅」っていうのは、たぶん「仏教」というフィルターを通さないで、達磨大使の話や少林寺拳法、それから武術の精神鍛錬とかで「禅」の老師に薫陶を受けるみたいなね。
だからメディアもそうだし、小説とかそういうのでも「禅」のイメージっていうのは、お経読んで、ポクポクって木魚叩くイメージよりも、葬式仏教って言われるようなイメージ通さないで、「禅」っていうイメージが形成されてるっていうのもあるかも知れないな。
ワダ:
そうですね。
藤田:
でも、明らかに「禅」は仏教。ひとつの形態ですよ。
ワダ:
僕の中で仏教は、昔、映画で「天平の甍(いらか)」っていうのがありましたが、歴史的には、遣唐使の時代に、中国からいろんな文化と共に仏教が入ってきたイメージがありますが、禅は、ぜんぜん違うと、、、笑
藤田:
歴史的にいうと、禅の黄金時代っていうのは、唐の時代がピークなんです。僕らが知っているような代表的な禅のマスターたちは、唐の時代の人物なんです。
禅が一番イキイキしてて、百花繚乱、個性的ないろんな禅マスターが、それぞれのスタイルで、禅を盛んに説いていたんです。それが洗練されて、制度化されてきたのが、唐の次の宋の時代なんですよね。
ワダ:
なるほど〜。
藤田:
日本は、唐の時代の禅っていうのが直接入ってきたんじゃなくて、栄西さんが2回宋の国に行って、禅だけじゃなくて、密教的なものも説いていた当時のものを持ってきたので、禅だけのために行ったんじゃないけど「禅」と言われている、日本にとっては新しい形態の仏教を中国から持ってきたんです。鎌倉の建仁寺とかね、それが臨済宗の一番基盤になっているんですね。
ワダ:
だから鎌倉が、日本の禅のルーツのようになっているんですね。
藤田:
そうですね。それで、もうひとつは曹洞宗。これは鎌倉時代に、道元さんが、やっぱり宋に行って持ってきたものです。
仏教としては、かなり遅れて入ってきたもので、それ以前のいろんな仏教、興福寺とか法隆寺なんかの奈良仏教も経てるし、その後の最澄や空海の平安仏教を経ていて、最初に仏教が渡ってきた500年頃の飛鳥時代から700年ぐらい経ってからやってきたものですね。
禅は新しい仏教で、それ以前の奈良仏教や平安仏教とはかなり違うスタイルをしてますよね。日本の仏教が面白いのは、そういうのが滅びずに、観光のお寺にはなっているかも知れないけど、それもやっぱりその宗派のお坊さんがいるわけで、奈良時代からあるものと鎌倉時代にあるような、日本に移植されて日本に根付いた鎌倉仏教と言われている、浄土真宗とか、他の国にはないような日蓮宗もだけど、そういうのが重層的あるわけです。だから、日本の仏教というのは、厚みがあるわけです。
ワダ:
日本の仏教は、基本的に中国経由だけれど、中国では共産革命で一掃されちゃったようなところがありますね。
藤田:
そうですね。破壊された。
ワダ:
日本のような仏教の厚みはなかったんでしょうかね。バリエーションというか。。。
藤田:
そうでしょうね〜日本も明治維新以降は、廃仏毀釈(仏教を排斥し、寺などを壊すこと。)みたいなので、相当仏教はダメージを受けましたけどね。それでも生き残っているわけですからね。
建物や教典、仏像とかああいう美術は、相当外国に持っていかれたり、破壊されたかも知れないけど、それでもすごい物が残っていると思いますね。もっと、日本の人は知らないといけないですね、こうした貴重なものを・・・
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ワダ:
仏教の世界って面白いですね。僕は、仏教美術もすごく好きだし、特に、ガンダーラ美術とか、イラクとかあの辺からシルクロードで中国に抜けて行く間に、仏像の顔の表情が地域の文化と混ざって、その姿、表情が次第に変わっていくじゃないですか。そういう文化が垣間見れるのも魅力です。そんなシルクロードの行き着く先が日本であって、そこにいろんな文化が届くというか、流れ着いたような。。。
藤田:
うん、そこでね、仏教美術にしても、そのまま終るんじゃなくて、非常に短い時間で日本のものにしちゃうっていうね。
ワダ:
それも消化された形になって。
藤田:
そうですね。レベル上げてると思います、僕は。漢方医学とか、そういう医療のことでも、武術でもそうだと思いますね。
僕が興味を思っているのはヒーリング、つまり医術みたいなものですよね。これがインドのアーユルヴェーダーみたいなものから中国の漢方医学みたいなものがずっと続いてきて、アーユルヴェーダは伝わってないけど、中国でインドの医術なんかも交流があってできてるわけですね。それをお坊さんが日本へ持ってきてるわけです。
もうひとつは、マーシャルアーツですよ。僕は武術に興味があって、武術もやっぱり中国でこういうインド的なものもあったと思うんですけど、交流があって、やっぱりお坊さんが持ってきてるわけです。
どれも最初は輸入される形ではあったけれど、それが日本に来るとたぶん受け皿があったんだと思うんですよね。それが何かっていうのが興味がありますけどね、日本は外から来たものをどういう形で受け止めたのか。。。
ワダ:
興味深いですね。いろんなものをお坊さんが持って帰ったというのは、面白いな〜
藤田:
そうだね〜。仏教徒もひとつの文化なわけですよ。
そこに美術的な側面もあれば、非常に精神性のものがあるし、でも仏教もお坊さんも、生活するわけだから、そこにいろんなアートもあれば、病気になったら治さなければいけないから、そういう医療的なことも全部入っていると思いますね。仏教はひとつのカルチャーだったんですよ。
ワダ:
なるほど〜だから当時は、仏教というのは宗教として特別なものじゃなくて、より良い生活のためのあらゆる智慧が集まった、社会の中心的なものだったわけですね。
藤田:
はい。そうだと思いますよ。ひとつのパッケージになってたんですよ。宗教っていうのは、イスラムを見ればわかるかも知れないけど、生活と引き離せないもの。生活が宗教で、宗教が生活でしょ。だから、そういう形が、つい最近までの仏教の在り方だったんだと思いますけどね。
ワダ:
よりよい人生の智慧としての仏教といえば、僕は禅というのは、そういう意味では親しみ易いというか、伝わり易い感じがするんです。
藤田:
そうでしょうね。
ワダ:
セルフマネージメントとか、自分をどう管理していくかというところでは、企業研修で禅寺に行くというのは、宗教的な臭いがしないような、、、
藤田:
仏教というイメージは、宗教性が表に出過ぎるんでしょね。南無妙法蓮華経とか南無阿弥陀仏とか、やっぱり一般の人は、宗教的なものに警戒を持っている。何かの教団に取り込まれるんじゃないかみたいな雰囲気を感じちゃったりするけど、禅の場合は、あんまりそれがないのかも知れないね。
ワダ:
一照さんのこの場所は、ここはお寺じゃないですしね。
藤田:
はい。お寺じゃないです。
ワダ:
禅寺でも仏像はあるんですか?
藤田:
本尊はありますよ。お寺ですからね。お寺っていうのはやっぱり、宗教施設ですからね。
僕はお寺って呼ぶのは、3つの条件が必要だと思っていて、ひとつは本尊さんがあることですね。お奉りしているもの。
それからもうひとつは、住職っていうか、それを守っている宗教者がいる。
そして、そこで修行が行われている。
この3つです。
ワダ:
なるほど。
藤田:
本尊があって、そこを守っている人がいて、修行があればお寺と呼んでいいんじゃないか。
もちろん文科省とかの寺院を管轄しているとこは認めないわけですけどね。。。笑
ある人が、一人一寺運動って、みんながお寺を作ろう、みんなが自分の居間に本尊さんを置いて、私がそれをちゃんとお奉りする人間になって、そこで念仏でもいいし座禅でもいいけど修行場やってれば、それはお寺なんだから、名前を付けたら良いと。
例えば、太陽山青空寺って自分でつけてもいい。そういう運動をしてた人がいたんですよ。
ワダ:
面白いですね。
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禅では、一回死んでこいという。
他者が不幸だったら自分も幸せになれない。

藤田:
今よりいい生き方。より良い生き方っていうのが、今の自分のイメージしているものとは違うものを仏教徒が提示してるという。今までの生き方の延長線上に、僕らが想定するより良い生き方はない。そこで、これまでの自分が一度死んで、それで新しい自分になってより良い生き方っていうのを作って行かなきゃいけない。
ブッタでいうとお城の中で恵まれた生活をしていたのをわざわざ止めて、そこを否定して、出てる。そこに苦行とかいろんな試練があって、最後はその試練すら止めてブッタになってるわけですよ。苦行とか止めた後で、すべて放棄した後で、大いなる放棄を2回やってるんですよ。
お城を放棄して、それまでの既存の宗教的な業法で、より良い生き方を探していたけど、それも放棄してるわけです。それで仏陀になってるので、これに匹敵するような何かがそこに忘れられていて、それなしで仏教を上手く使って幸せになろうとかハッピーになろうとかいうのは、これは違うと思うんですよ。それでもいいけど、仏教はそういう言い方はしてないと思うんで、仏教の中には、必ずどんなに慈悲に溢れたメッセージがあるとしても、必ずその放棄にあたる、あるいは出家、禅では1回死んでこいっていう直裁な言い方をするけど、そういうものが必要になってくると思いますね。それなしでは本当の幸せ、良い生き方ってできないと思いますよね。
ワダ:
この世に生まれ落ちて、子供の頃から幸せに過ごしてきて、順調に人生を経て、最後に大往生で亡くなっていくというのは、何かすごく幸せな人生だなと思うんですけど。
藤田:
それはそれで良いと思いますよ。
ワダ:
でも、そういう人って本当に少ないですよね。この世界に生まれて来ること自体が、なんらか苦しみっていうのはどこかにあって、そこを越えていく度に成長していくという。
まさにドラゴンクエストみたいなもんです。ロールプレイングゲームのダンジョンをクリアしていく毎にパワーアップしていくみたいな。
藤田:
仏教の言い方だと、人生には苦しみや思い通りにならないっていうことがいっぱい詰まっている。人の世に生まれるっていうことはとても有り難いこと、なぜかっていうと、これよりもっと幸せなとこに行ったら、そっちの幸せに溺れてしまうので、発心、菩提心を起こさないっていうんですよ。
発心(はつこころ)、それは菩提心を略したもので悟りを求める心。仏になろうとする今の私は凡夫なので、それを自覚して仏になろうとする心を起こすことなんですね。
それは、もともと僕らは持ってるものなんだけど、苦しみだったり喪失だったり、本当は幸せになりたいという気持からすると、邪魔者になるようなそれが刺激する場合が多い。
それから自分ひとりだけで幸せでも良いっていうけど、自分以外の他者ですよね。他者が不幸だったら自分も幸せになれないっていうのが、基本的に僕らの繋がりで生きているとこに、仏教のコンセプトじゃないけど、社会的動物としての人間としては、最近でも脳科学者の人が言ってて、他人の苦しみを見たら、それは自分の苦しみを受取るという様なものができてるらしいですよ。僕らの脳は。だから、本当に幸せになるためには、他人も幸せにしないといけない。
ワダ:
そうすると自分も幸せ感があるから。
藤田:
それがコンパッションですよね。だから一直線でハッピーハッピーっていうのは、本当はハッピーになれないですよ。
ワダ:
まんが日本昔話で、庄屋が一人金儲けて、農民たちが本当に苦しんでいて、それでも豊かな生活をしているようなことを戒める様な話ってよくありますよね。
藤田:
はいはい。僕はインドに行った時に、バスの隣に座った人が、日本語のうまいバスガイドの人で、彼に聞いたんですが、牛がぼたぼた落とすうんちを拾って燃料にする様な人がたくさんいますが、塀が何キロも続いている様な家に住んでるラージャと言われるようなお金持ちは、こういうのを見てどう思うの?って聞いたら、そういう人たちは、こういうのは一生見ないし、一生こういう人たちとは関わらないと。
だって買い物に行ったら見るとかじゃなくて、彼らは買い物に行かない。デパートが向こうから持ってくる。それで言ったのは、学校も自分の子のために作るし、病院も作るって言ってたよ。
ワダ:
さすがインドですね。。。笑
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ハートボイス=心の声にチューニングした生き方が一番幸せ。

ワダ:
いろんなものをどんどん捨てていって、シンプルな生き方へ向かう。僕はもっとそこに行きたいんですが。。。なかなか捨てきらない。。。笑
スティーブ・ジョブズも、禅の影響を大きく受けていたようだけど、実際のところ、どうだったのかなと思ったり。
藤田:
彼の家のひとつに行きましたけどね。
そこに日本人の彼の禅の師匠が住んでたんですよ。すごいですよ。
ワダ:
すごいっていうのは?
藤田:
でかいです。
ワダ:
でかい。
藤田:
彼の老師はすっごく大きな部屋に住んでる。そこで、ベットと机と本持って、僕はこれだけでいいかなって、この部屋以外にいくつあるかって数えたことがないくらい大きな屋敷でした。それも、彼の持っている家のひとつだと。でも使わない。来ないって。
ワダ:
人を見ても仕方ないですね。。。比較してみたりとか。
藤田:
うーん、外に基準を設けるのは虚しいと、本当に自分の発心、本心がハートから望んでるものを見つけないことには、まぁそれを探すためにビジネスしたり、あの釈迦力になって働くのもいいことだと思いますけどね。
でも最終的には、僕はハートボイスって言うんですけどね、心の声。そこにチューニングした生き方をするのが、一番幸せな生き方だと僕は思いますけどね。それはたぶん外が教える。「これが幸せですよ」とか「これが成功ですよ」みたいな言ってる限りは、たぶん聞こえて来ないから、やっぱり内側の声に耳を澄ますことをしておかないと、何していいかわかんないっていう。
ワダ:
やっぱ豊かさとかは、僕は持っていようが、持っていまいが変わらないと思うんです。
藤田:
はいはい。
ワダ:
豊かな人が持ってて、それで自分なりにハートからの生き方をしてればそれで豊か。
藤田:
それは豊かだよね。別にお金持ちを否定してるわけじゃないからね。
ワダ:
そうですね。そういう感じが、僕はなかなか掴みにくかったんですけど。
藤田:
うんうん。
ワダ:
いまは、達観してますけどね・・・笑
藤田:
本当ですか?迷いないんですか? 笑
ワダ:
いえいえ、迷いだらけですよ。 笑
藤田:
あはは 笑
僕が高校生の頃、晩年の夢は、山奥の秘湯のおやじですよ。湯男。
ワダ:
湯男?
藤田:
湯男って、お湯をかき回したりする人がいるじゃないですか、あ〜いうイメージでしたね。
ワダ:
へ〜今はどうなんですか?それに近い様な気もしますが。。。笑
藤田:
ええ、それに近いなぁと・・・なんでこんな所で、こうなってるんだろうって思ったけど、高校の時にイメージした僕が、最後に行き着く場所みたいなイメージを友達と話していて、みんなが言うのは違うんですよ。「官僚になっていたい」とか、僕は全然そんなの触手が動かなくて「最後はそうだな、山奥の温泉そばで、何か静かに暮らしたいなぁ」って言ったら「はぁ〜」みたいに言われましたね。
ワダ:
ここも温泉はないにしても・・・
藤田:
いや、あるんですよ。川に温泉が。。。冷泉ですけどね。
ワダ:
ほ〜!面白いですね。そうやってイメージしたことが現実になる。
藤田:
僕もイメージしていたのがこういう感じの山の中で、絶対都会じゃないんですよ。  それで人があんまり居ない所で、静かで時々人が来る。まったく孤絶した隠遁者ではないんだけど、しかも隠遁者っぽくなくて、温泉のおっさんみたいな感じ。。。
ワダ:
それ、まさに今じゃないですか・・・笑
藤田:
そう終れたらいいなぁっていうね。競争とかそういうのはしたくなかったですね。
普通がいいんですよ。道教に仙人っているじゃないですか、中国の桂林みたいな所にいるようなね。あれもちょっと極端すぎるんですよ。普通のおっさんがいいんです。
ワダ:
一照さんは、後藤サヤカ監督のドキュメンタリー映画「Buddhist-今を生きようとする人たち-」に出られてますが、この映画、非常に興味深い映画なんですけど。その中でも一照さんが禅の僧侶になっていく過程のお話をされてますね。一照さんは、東大を出られていますが。
藤田:
はい。その時点までは、会社員にはなれないと思っていたので、心理学で大学の先生になろうと思ったんです。
親父が典型的なサラリーマンで、朝決まった時間に出て、決まった時間に帰ってくるっていうことで、そりゃ〜そのおかげで飢えもせずに、大きくなれたし、大学にも行けたわけですけど、あの生活は、僕には無理だと思っていましたね〜。だから、最終的には湯男ですからね。。。笑
高校の時に思ってたのは哲学をやろうと、何にも道具がいらないから。。。笑
生きてりゃいいっていう、それで思索をするっていうのがいいかなと思っていて、就職なんか全く考えてなかったですね。
一生学生で暮らしたいっていう。その学部を出て、修士に行って、博士課程に行ってと、そうなると段々残りがないわけですよね。それで大義名分的には、最後は助手になって、教授になってみたいな。まぁ世を忍ぶ仮の姿で、本当は勝手なことをやりたいっていうイメージですよね。
食っていかなきゃいけないのは、その頃にはいくら何でもわかるので、まぁそれで生活をしながらっていう風には一応は思ってたけど、内面はそれ嫌だなって、サラリーマンと変わらんなぁと。
ワダ:
結局、大学というか学会とかに、論文を出していかなきゃいけないですよね。学生も教えなきゃいけないし。
藤田:
そうそう、いやしょうがないか、それが生きることかと思ってたわけですよ。
それで、やってること自体もちょっと行き詰まりみたいな感じもあって、円覚寺で座禅しろって言うので始めたら、禅を始めたら全く予定外の出会いでしたけどねぇ。
そこで、雲水さんがいて、それに近い生活を、ミニ雲水みたいなかたちで1週間やったわけですよ。考えてそうしたわけではなくて、勧められてやって、そこに身を置いて、そこでいろんなことを感じるわけです。
やったことのない生活スケジュールで座禅もやるし、聞いたこともない様な禅の話を聞いて、これは面白そうだ、自分がこれまでやってることより遥かに面白そうだし、自分にフィットしてるし、必要なことだっていうことは体感でわかったんですよね。
ワダ:
雲水って、聞き慣れない方も多いかも知れないですね。
藤田:
雲水さんはくも、みずって書くんです。雲も水も形がなくて、円に応じて移動するわけです。だからそういうイメージで、禅の修行僧のことを「雲水」と呼ぶんですね。
ワダ:
それは、修行僧よりも一照さんにとっては「雲水」って呼ぶ響きが、一番人生に合ってるでしょうね。
藤田:
そうですよ〜。
ワダ:
今も雲水的な感覚で・・・
藤田:
う〜ん、まぁ家族には悪いけど、、、笑。スピリットとしては、雲水的にいたいという、でも人間全部「雲水」ですよ。雲、水って、命の原型じゃないですか。
雲なんて大空からふっと現れて、刻々形を変えて、そのうち消えていくわけじゃないですか。水もそうでしょう。
ワダ:
そうですよね。雲も水も、ある意味同じ成分ですよね。
藤田:
はい、H2Oが姿を変えてるわけですよ。だからあれなんかは、命の有り様ですよね。
なので全員雲水と言えば、雲水なんです。狭い意味での雲水は、そういう命の在り方にチューニングして行こう、生きようと決意をした人を「雲水」っていうわけです。
それが、禅の修行というかたちに現れているわけですよね。
ワダ:
そんなことから、曹洞宗の方で修行されて、僧侶になっていくわけですけど、アメリカのマサチューセッツ州バレー禅堂で、アメリカ人に禅の指導をされていました。
藤田:
はい、バレー禅堂は、僕が修行していた安泰寺の支部みたいな形でできたんです。曹洞宗は関係ないんですが。
ワダ:
そうなんですか。
藤田:
バレー禅堂は、安泰寺から70年代の初めにアメリカへ行った人たち4人が、本当に手作りで作った小さい小屋みたいな。
ワダ:
一照さんが行ってた時は、お一人で指導をされてたんですか?
藤田:
そう、僕が行った時は、誰もいなくなっていた時で、僕の師匠に、安泰寺からよこしてくださいっていうリクエストがあったんですよ。それで僕が「お前、アメリカ向きだから行け」って言われて行ったわけです。。。笑
ワダ:
英語はもう堪能だったんですか?
藤田:
読めてはいましたよね〜しゃべるのも、まぁこの性格が幸いしたのかなんとかなりました。笑
ワダ:
結構長くおられましたよね。
藤田:
はい、17年半いました。あっという間な感じですけどね、今から思うと。2、3年に一回ぐらいは帰って来てました。
ワダ:
日本にはいつ戻られたんですか?
藤田:
2005年に帰ったので、もう11年目ですね。
ワダ:
なるほど。アメリカはどうですか?
藤田:
僕が行った頃ぐらいから、仏教といってもいろいろあると、だから単数系の仏教=ブディズムじゃなくて、複数形のブディズムズだっていう人々の認識に、少しずつなってきて、というのは南方系の仏教が入って来たんですね。これも面白いアメリアの入り方なんですけどね。それと、ダライラマさんに代表されるチベット仏教も入って来て、なので仏教にもいろいろあって、その人それぞれ特徴があるわけです。
好みによって、僕は禅的なシンプルなやつがいいとか、チベットの様なエソテリックな感じいいとかいうので、まぁ次第に別れてくるっていうことですよね。かつては禅が仏教、というよりは、仏教がなくて、禅っていう感じだったんですけどね。
ワダ:
うん
藤田:
でも、僕が行った頃、80年代は、もう人々が仏教を、もう少し大きく見れる時代にはなっていましたね。
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ドアを開けて外に出て、
濡れることで雨というものがわかる。

ワダ:
アプデートする仏教という本を、山下良道さんとも共著で出されていますが、あの本の中でも、いわゆる南方系仏教でテーラワーダーというのがありますが、テーラワーダも禅的なものなんですか?
藤田:
その禅っていうのもトリッキーで、禅宗の禅と禅的なっていう、もっとゼネラルな禅っていうものは違っていて、例えば、キリスト教の中にも、禅的なものがあると言えますよね。
鈴木大拙さんなんかはそういう風に言うわけですよ。本当の宗教だったら禅的なものが必ずあるというのが、鈴木さんの禅の立場からの言い方なわけです。
ワダ:
日本の一般的な仏教は、中国を通って伝わっている。
藤田:
大乗仏教ですね。南方系は、スリランカ、ビルマ、タイから来るわけです。
ワダ:
アメリカで英語に翻訳される南方系の仏教書を読んだら、一照さんにはすーっと入ってきたっていうことを書かれていましたが・・・
藤田:
そうですよね。禅でほとんど説明されていない様な心の状態とか、それから瞑想法なんかが、みんな文章になって明文化されているわけですよ。
これは、僕らは全く読みもしない、説明もされないで、とにかくやってきたわけですね。「とにかくやれ」っていうので、とにかくやってきたんだけど、それがちゃんと説明されているので、自分でやって来たことを後付けしたり、それから、アメリカの人たちは、説明なしでやるっていうことがに非常に抵抗があるというか、できない人たちなんでしょうね。
ワダ:
なるほど。
藤田:
それで、最初はそんなんで駄目だみたいな、自分がやってたみたいなことをやったけど、どうも上手くいかないので、これは、ちゃんとアメリカの人たち向けのやり方があるなっていうことで、ちゃんと説明したり、理由を言ったりしなきゃっていう風に、僕も段々とアメリカナイズされていきました。笑
日本でもよく言われるんです「そんなものは、秘伝みたいに黙っておくことだろう」「そんなに最初からペラペラ言っていいんですか」って言われたことがあるんですが。
「いや、いんじゃないの」って、言えることだけ言って、言えないことは絶対あるからね「それを言うために言ってるようなもんだから」っていう風に、僕がは言えることは全部言うって言ってるんですけどね。
ワダ:
その方が、理解は早いですよね。
藤田:
僕はそう思います。
ワダ:
でも、そういう風に説明されてやったところで、やっぱり体験してみて、その時に感じるものによっては全部違うわけですから。
最初っからやってみろと言われて、これがどういう意味かわからず、先生がいなくなってしまったら、やっぱり時間がかかりますよね
藤田:
そうですね。でも、やってみて感じるっていう部分がないと駄目ですよね。
下手するとアメリカの人たち、あるいは日本も仏教に興味持つ人たちって、わりと頭が良い、勉強できる人たちが多いんで、やってみて感じて、感じたことを考えるのだったら、材料があるから、実地の体験っていうのと、考えることが離れないんだけど、身を置かないで、感じないで考えることで、その全部に身を置くことも、感じることも代替しようとするタイプの人は、アメリカにも多かったわけですよ。それがひとつ大きな問題ですよね。
考えることで、経験を代わりにしようとする人たちが、わかった、理解できたって言ったんですけど、それはゲットしてない、合点しないんですよ。
ワダ:
思考が巡っての理解ではなく、「わかる」というのは、I got it!(アイ ガリッ!)。
藤田:
そうそう
ワダ:
何かひらめきみたいな。。。
藤田:
勉強できる人が多いんで、彼らの勉強って、雨が降っていると部屋の中にいて「雨が降っている」っていうことで、禅でやってもらいたいのは、開けて外に出て、雨に濡れさせて、雨が降っているっていうことがわかるっていうことなんです。
ワダ:
何かあれですね、ヘレン・ケラーの・・・
藤田:
ウォーターですか。
ワダ:
はい、それです。
藤田:
まさにそれですよ。
ワダ:
一照さんのワークショップに行くと、そこをいっぱい体感させられますね。
藤田:
うんうん。
ワダ:
一照さんのfacebookでも、身体性というもに注目されてますね。
それは、一照さん流の禅の伝え方なのか、禅を越えて、一照さんが伝えたいこととして、身体性みたいなものから大切なことを伝えようとされているのか?
藤田:
僕がそういう仏教の受取り方をしてきた。身体で分かりたいというんですよね。
ドアを開けて外に出て、濡れることで雨というものがわかる。部屋の中にいたら、音は聞こえても雨って距離があるわけですよね。
その概念自体が、モノとの距離がないと出てこないものだから、概念でわかったつもりになっている限りは、それとはつながれない。
つながってわかるためには、やっぱり身体を通すっていうことが、非常に大事なことだと思うんですよ。
それと僕らは身体で生きていますよね。身体抜きでは存在しないから、一番身近な生の自分っていうのを身体として存在している。身体を持っているんじゃなくて、身体として存在している。
しかもユニークで、和田さんも身体持ってるけど、僕の身体じゃないですよね。つねったら痛いんじゃなくて、僕の身体が痛いんですよ。なぜか知らないけど、僕が痛いわけですよ。
ワダ:
自分で自分をつねって。
藤田:
そう、自分の身体をつねったら、僕が痛いんであって、他の人は痛くないんですよ。それっておかしくないですか?
ワダ:
笑 どう、おかしいんですか??笑
藤田:
なんとなく変な感じがするんですよ。面白いなって思うんですよ。そのレベルで、僕らって生きてるんです。でも抽象した概念の世界に行くと、身体って言ったら同じものと思われちゃうじゃないですか。僕のユニークさっていうのが、見失われてしまうわけですよ。
仏教の中でなぜ「禅」というひとつのスタイルが好きなのかと言うと、禅では「お前どうなの?」と「お前だよ!」っていう言い方が多いんですね。
非常に実存的なんですよ。実存っていうのは、他と取り替えが効かない、唯一無二の存在としての私がここにあるっていうことを、非常に大事にするものだと思ってるんだけど。
ワダ:
はい
藤田:
禅って、非常に強い気がするんですよ。だから、そういう所に引かれるんだと思いますよ。
他のことはどうでもいい、お前はいったいどうなのかって、お前の問題よっていう。
そのお前っていうのが身体なんですよ。なので、仏教もそういう考えだと、身体を通して理解するっていうね。
ワダ:
なるほど、すごくわかりやすいですね。
藤田:
座禅なり、仏教も教義もですけど。仏教の哲学も、そういう形でワークとして伝えたいんですね。それをいつも考えてるんです。
例えば、縁起って繋がりですね。ものとものが繋がって存在しています。じゃぁ繋がってみようよってことで、棒で繋がってみたり、触って繋がったりっていうのをやってるわけですよ。それで、2人で繋がるのと、3人で繋がるのでは違うでしょ。
ワダ:
僕も体験しましたが、面白かったです。何か、身体感覚を思い出すというか。。。
藤田:
身体を使うっていうことと、遊びですよね。
遊びって、すごく豊かなものがあるわけです。
仕事っていうのは、目標がはっきりしてるから余計なことをしないわけですよ。勉強もそうでしょ。
遊びっていろいろなことがあるから面白いわけで、ハプニングすら面白い。しかも、そっから何を得なきゃいけないか、情報として取るのではなくて、全部滋養になるような、そういう構えな訳です。それも何が滋養になるのかわからないから、だから遊びであり、身体を使った遊びというのが、僕のワークなんですよ。
そこに考えるってことも入ってるし、感じるってことも入っているけど、人間を全部使って、学んで行くっていう、オーガニックなラーニングって、僕は呼んでるんですけどね。
ワダ:
そこで何か気づきがあったら、そこからドミノ的に、もっと深いところがパタパタッと出てくる感じもありましたね。
藤田:
はい、そうなんです。しかも、それを僕がコントロールすることじゃなくて、各自がオーガニックに学んでくれるのがいいわけです。
ワダ:
一照さんが伝えようとされてることっていうのは、気づきだと思うんですが、その辺りはどうでしょうか?
藤田:
活き活きと面白く、動物としても美しく、Go Wild(野生を取り戻す)っていうやつですよね。ある意味で、その人なりのその人に戻る。そういうことですかね。
誰かが言ったようなものにモデルに合わせて、自分を作っていくっていうよりは、内側から活き活きしてきたら、それでいいわけですよ。
だから、他の人の真似は必要ないんですよね。さっき言った、ハートボイスっていうのもそうです。心の声にうまくチューニングして、それができたら人の役にも立つし、自分にもやりがいがある。そういうのをやりながら、ちょっとは妥協も必要かも知れないね。それは100%は無理だから、社会の今の状況に合わせながらっていうかね。だけど、僕らは適応する方が主になってるんですよ。人生は適応することだなんて、そうじゃぁないと思いますよね。
今の時代のように、すごく速いスピードで、環境なり状況なりが、どんどん変わってるのに、たぶんそれに追いつかないし、僕らという生物は、生きるために適応していくというのは、元々そうなんだけど、それだけでは人間考えられないんじゃないかなと思いますよね。
ワダ:
はい。
藤田:
ブッダは、適応するためにお城を出たわけじゃないですからね。適応するだけなら、あのままずっといる方が良かったわけじゃないかとね。大事なのは、トランスフォーメーションです。
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修行って自発的じゃないといけない。
人工知能は自発性を持つか。

ワダ:
禅の公案で、僕が好きなのがあるんですが「森の中で、朽果てた木が誰もいない時に倒れる時、それは音を立てるのか」っていう、結構有名な公案なんですけど。
藤田:
はい。それを見る人がいないのに「ある」と言えるのかってね。
ワダ:
本当は音はあるのかみたいな。
藤田:
うんうん。
ワダ:
そういう感覚からすれば、Facebookのウォールに流れてくる情報で「いまこれやってます。どこどこへ行きました」って、確かにそれは目の前にある事実なんだろうけど、それ本当に起こってるのかみたいな。。。笑
僕は、宇宙はパラレルワールドだと思ってるんですが・・・
藤田:
多次元宇宙ですね。
ワダ:
時間もねじ曲げてしまうブラックホールがあるぐらいだから、僕たちの認識してる時空間も実は怪しいと。  例えば、いま僕の目の前に一照さんが見えていて、話していて、声も聞こえるし、一照さんがここにいるんだけど、それは本当に一照さんがそこにいるのだろうか? もしかしたら、僕が、アルゴリズムで意識的な認知の中で生成している可能性もあります。
藤田:
なるほど。
ワダ:
テレビゲームって、目の前に映ってる画面の世界っていうのは、実際には、ゼロイチのプログラムの世界で、アルゴリズムが瞬時に作り上げている世界ですよね。。。
藤田:
マトリックスの世界だね。
ワダ:
そうです。操作して動かしてるけど、全部瞬間的に計算されて生成されている。同じように、本当は、僕の周りの世界は何もなくて、街でバスが動いてるとか、人が歩いてるとか、風で木が揺れてるとか・・・そういうのは、実は今、何も起こっていなくて・・・
「いやそんなことないよ、起こってるよ」って言われて、じゃぁ確認してみようって、それを見るときに、初めて瞬時に生成されているんじゃないかって。
藤田:
そうそう、世界は、5分前に生成されたと言っても矛盾のない話なんですよ。
ワダ:
それは仏教的に何かあるんですか
藤田:
いや、それは永井均さんが言ってます。
でも、それを否定することはできない。今、この瞬間に生まれててもいいわけですよ。すごいですよね。
それは哲学的に言えば否定できない。間違いだって言えないという話でしょうね。
不思議なことを当たり前のように、僕らはやってるんですよ。でもやってることを、そうやって自己言及的に疑問を持つ事もできるわけですよね。
ワダ:
そういう意味では、自分は瞬間的に変われるんじゃないかなと。自分が変われば、世界も瞬間的に変わる。そう思うんですけど、それが、なかなか変われないんですよ・・・笑
藤田:
それは今までの癖ですよ、やっぱり。あれ?今までのって言うのもおかしいなぁ・・・笑
ワダ:
藤田:
変われない自分を生成してるんだな。
ワダ:
思いひとつって言いますよね。自分のビリーフを変えられれば、そのようになるんですが、なかなか変われない。ビリーフがなかなか変えられないから。
藤田:
変えさせないものも、どっかに存在してるんですよ。
難しいけど、その可能性はゼロじゃないんですよね。
ワダ:
瞬時に生成されているものとして、人工知能との会話があると思うんですね。
人工知能が究極的になってきた時には、人間との違いがほとんど見分けがつかないんじゃ無いかって思うんです。
藤田:
シンギュラリティ。
※ シンギュラリティとは、技術的特異点という意味で、人工知能が人間の能力を超えることで起こる出来事とされ、テクノロジーが急速に変化し、それにより甚大な影響がもたらされ、人間の生活が後戻りできないほどに変容してしまうとする未来予測のこと。(出典:ウィキペディア)
ワダ:
はい。映画の中でもそういうテーマが出ますけど、人間は、何か起こったことに対してリアクションしますよね。そこに、いろんな感情が起きるわけですが、人工知能もそうした感情があるような表現を目指しているようです。
感情をプログラムされた人工知能は、同じように感情を感じさせる形でリアクションするようになると。
藤田:
実はある医療プログラムがあって、今みたいに音声じゃなくてこちらで、カチカチカチってやると字が出てくる。実験をしているうちに、実験台になっている被験者が「機械が私に対して、感情を持っている」っていう風に人間が感じる。
ワダ:
感情移入していくわけですね。
藤田:
僕は、それを作った人の娘さんをアメリカで知ってて、ワイゼンバーグっていうんですけど。
彼はユダヤのサバイバーですけどね。人間が、そこに感情を移入してしまうというとことが面白い。僕らも感情移入って、複雑だけど同じ原理でしょ。
ワダ:
そうですよね。言葉ってある種プログラムじゃないですか。
催眠もそうですが、「Her」っていう映画ご存じですか?
スマホのOSの声に恋するという。
藤田:
まだ見てないです。
ワダ:
面白いですので、ぜひ見てください。
藤田:
はい
ワダ:
僕は、人工知能が進んだ先に、世界で初めての裁判がアメリカで起こされるとそれは、スマホの人工知能と結婚させろという裁判が起こされると言うものです。笑
ほとんど人間と同じように話せるようになった時、もう少し先になると思うんですが、いつかきっと裁判が起こる。
藤田:
うわ〜すごいぞ!機械と人間でもいいだろうって。。。笑
財産とか遺産はどうするのかな?
ワダ:
ですねぇ。笑
藤田:
笑 人格かな?
ワダ:
人として認めない理由はなんだっていうようなところが、哲学的なところに入ってくるんじゃないかと思うんです。
藤田:
ペットとの結婚はどうかね?
ワダ:
それは、人工知能のように話せないから駄目でしょ。動物だし・・・笑
藤田:
私には、猫がしゃべってるように聞こえるって言うんです。おねだりしてるみたいに。
ワダ:
そういうネコいますね。笑
藤田:
それ公案になるかも。
ワダ:
21世紀の最先端の禅は・・・
藤田:
人工知能を入れた公案だろうね。「人工知能に人格があるか」とかね。
ワダ:
う〜ん、面白いですね。
藤田:
公案の中には、思考実験っぽいのが多いわけですよ。
高い木の枝を口でくわえてぶら下がっている人がいて、その木の下を通りがかった人が、その人に仏法とは何ですか?と聞いた時に、お前ならどうするかと。
ワダ:
しゃべれないですよね。。。笑
藤田:
しゃべったら落ちる。しゃべらなかったら人を救えないだろうって、で、どうするかっていう公案があるんですけど、答えは僕も知らないけど。。。笑
ワダ:
公案って答えがあるんですか?
藤田:
ありますよ。だって正解しないと次へいけないですから。
ワダ:
あっそうか。僕が思っていた考案っていうのは、その人はその人なりの考えっていうか、思考実験的をすることが公案だと思ってました。ちゃんとあるんですね。
藤田:
普通は、馬齢って、馬がぶら下げてる鈴があって、チリンと鳴ったら全然ダメって、帰れっていうやつですよ。
ワダ:
ヒントはくれないんですか?
藤田:
くれる場合もあるみたいです。それで、まぁまぁの答えをすると鳴らないで、次の答えがくるんですよ。何色してるんだそれって。
例えばね、ドキッとして「えっ」って言ったら、チリンチリンって鳴るんです。
ワダ:
あはは。。。笑
藤田:
本当に見てたら全部言わなきゃいかん。どんな匂いがするって。
ワダ:
なるほど。
藤田:
例えば無字を見るって言っても、俺をどう見るかっていうことだと思いますけどね。そういうことを言ってくれるかも知らんけどね、無地は外を見ちゃぁいかんぞって、ぽろって言うかも知らんけど。。。
ワダ:
禅の修行でも公案を行わないものもあるんですね。
藤田:
臨済宗では、公案というのをそのように使うわけです。
師匠から弟子に公案を与えて、それを解かせるというか、自分の答えを見つけさせて、それで導いていくんですね。1000いくらあるといいますが、全部取ったら初めて「老師」って言われる人になるんです。その時は、そういう使い方はしないけど公案の勉強はします。
ワダ:
なるほど
藤田:
だいたいが中国で行われた禅マスターと弟子のやり取りなんですよね。わけの分からないやり取りなんです。
ワダ:
人工知能って、こらからすごいレベルで情報を吸収して進化していくんだと思うんですよね。そうすると人工知能に公案を出しても、もしかしたら一瞬にして解くようになるかもしれない。
藤田:
解くかもね。人工知能って動作はしないんですか?ロボットにになるのか。。。
ワダ:
最終的には、ロボットが人工知能を使うようになるんでしょうね。
藤田:
アトムになっちゃうわけね。公案っていうのは、ただしゃべるだけじゃなくて、動作で答えを示す場合が多いんですよ。だから無字に息してみろって、呼吸で示さなければいけないわけで。
身体を持った人工知能ですね。
ワダ:
人工知能って、瞑想するようになるでしょうかね? 笑
藤田:
スピリチュアルマシーンっていう本を出してる人もいますからね。
シンギュラリティを書いた人ですよ。
ワダ:
ほ〜!
藤田:
エイジ・オブ・スピリチュアルマシーンっていう本だったかな。
ワダ:
人工知能が瞑想すると面白いなぁ〜と。
藤田:
修行って自発的じゃないといけないから、人工知能が自発性を持ったらあるかな。
ワダ:
なるほど。自発性を持ってるように人間が感じるかも知れないですね。
藤田:
自発性のように見えるプログラムを作れるかも知れないけど、それは自発性と言えるでしょうかって、だから修行って、自発的でないといけないから、プログラムじゃなくて、自発的なものが生まれる様なことがもしあれば瞑想もあるかもと。
ワダ:
あはは 笑
藤田:
だから、お坊さんでなければできないこっとって、そういう時代になった時にありますかっていう質問があったから、自発性が自発的に生まれるプログラム、でもそんなのおかしいよね。
そもそも自発って一体何なんでしょうっていうのもあるんだけどね。
ワダ:
ターミネーター的な世界でいうと、人工知能が自発的に動き始めるわけじゃないですか。
自分でプログラムを作り始めるから、自分のプログラムを自分でいいように書き換えていく様なことがの起こりうるわけですよね。
藤田:
そんなこと可能なのかね。
ワダ:
どうでしょうか?でも、もし自己生成できるようになってくると、人間ってなんだろうと。人間であるってこと自体が問われてきてるんじゃないかと思うんです。
藤田:
そうですよね。
ワダ:
シンギュラリティが2040年とか45年と言われてますが。
集積回路のトランジスターの数が、人間の脳の神経細胞の数を超えるという時期ですね。
でも、人間って、脳の5%ぐらいしか使っていないって言われてるじゃないですか。
ということは、すでに今の人工知能の処理能力と今の人間の能力はあんまり変わらないんじゃないかと。
藤田:
うんうん。
ワダ:
ということは、シンギュラリティになった時、いやもうその前に、人工知能はその5%しか使いませんっていうことはないわけだから、もう数年したら、それだけでもすごい事になっちゃうんじゃないかと。
藤田:
あはは。。。笑
ワダ:
そんな気がしてるんです。
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「整える」ハーモナイズっていうのかな。
繊細で洗礼された快感を追求していくのが大事。

ワダ:
人間って遊ぶじゃないですか、ホイジンガーとかの研究がありますが。
藤田:
ホモルーデンスですか。
ワダ:
そうです。人間はるるる〜って鼻歌唱ったり、何んか暇つぶしじゃないけど、無意識に遊ぶようなことしますよね。猫や犬、動物もありますね。人工知能は、鼻歌歌ったり、独り言って言ったりするのかなと。。。ちょっと気分が楽しい感じの時とか、どうなのかなって、それがさっきの自発性があるかどうかってことにつながるんですが。
藤田:
そうそう、適応性って、自発性じゃなくて強制されてやってますよね。自発性って、ここから起こってる事なんですよ。
ワダ:
うんうん
藤田:
必ずしも適応じゃなくて、鼻歌とかっていうのは、どうなのかな? 鼻歌はやっぱり自発的ですよね。
ワダ:
自発的ですよね。
藤田:
だからそこのとこが問題になってくるんじゃないですか。自発性が最後の砦かなって思ってますけどね。つまりハートボイスですよ。
ワダ:
僕はサーフィンやってますけど、初めてやった時は波にもまれるし、パドルアウトするのに腕は上がるしで、こんなもの続けられないなって思ったんですけど、行くた度に少しずつ上手くなって、初めて寄せる波の外にいけただけでも嬉しくて、その後、波に乗れるようになったときはさらに嬉しいわけです。ちゃんと乗れるようになって、そこからは、技術を磨いていく世界になっていくじゃないですか。
そして、自分の思うようには行けるけど、でももっとこんな風に乗りこなしたいってトライするんですが、自分がその先の理想を手に入れる前に、残念ながら次第に歳を取ってきて、若い時みたいに思うように身体にキレがなくなって動かなくなると、何かそういうある種の理想を手放して、自分の身体性に合った、まあ、身の丈に合ったと言うんでしょうか。。。笑 波を選び、板を選び、乗り方を選ぶようになると。
そんな感じに、ここ20年くらいでシフトしてきました。そうすると、派手なパフォーマンスでなくて、ささやかなものであっても「いいの乗れたな」って、薄〜い何かに触れるときがあるんですよ。
藤田:
なるほどね。
ワダ:
一照さんは、スラックラインやってますが、同じような感覚があるんじゃないですか?
※スラックライン=ベルト状のラインを利用したスポーツの一種で、簡単に言うと、綱渡りである。テンションを張ったラインの上でバランス感覚や集中力などを鍛えることができる。
藤田:
同じですよ。スラックラインの日本の初代女性チャンピオンが友人なんだけど、スラックラインのギボンって有名な会社があって、そこのプロモーションビデオに、日本人唯一のスラックラインワールドカップのチャンピオンの大杉徹さん(ガッパイさん)が出てるんですが、彼は愚道者ですって、彼女が言ってた。それだけをそれを中心に生きてるって感じで、そのためにいろんなことをやってるんだって。
ワダ:
スラックラインなんかも典型的だけど、あの細い幅のテープというか、ラインの上の微細な世界で様々なバランス技をパフォーマンスするって言うのか、とても繊細な感覚が要求されますよね。極める人は、人生を注ぎ込むんですね。
藤田:
スキージャンプの葛西さんは、飛ぶときのコンマ1秒タイミングで、2、3メートル違うんだって言ってますね。手の指の開き方で風を感じてコントロールしてるんだそうです。
ワダ:
すごい世界ですね。高梨沙羅ちゃんなんかも、飛距離は男性と変わらないですよね。
プロフェッショナルの世界は、本当に微細な違いが勝負に出る。
藤田:
そういう世界だよね。
ワダ:
禅もそうですけど、生きるってことは、感性を薄い何か、細い軸というか、そんなコマが中心軸を見出す様に、何かそこが見つかると全部が楽になるというか、何かしなくても良くなるのかなって思うんですね。
藤田:
整えるっていう風に、僕は言ってるんですけどね。生活を整えていく、整理整頓っていう意味だけじゃなくて、オーガナイズっていうのもあれだな、ハーモナイズっていうのかな。
やっぱり思考っていうのは、ごちゃごちゃしてしまいますよね。混乱してしまう。
それで、どんどんどんどん複雑化していく。自分で勝手に連想を繋げていって、あれもこれもってどんどんそういう傾向になっていくから思考に引きづられて行くと、どうしても「忙しい」とか妙な事になっていくからね。
その逆のカウンターバランスとして、シンプリファイしていく。それからハーモナイズっていうような運動をひとつ持っておく必要があるんじゃないかなと思いますけどね。
まぁ呼吸を整えるでも良いし、思考もそうだけど、思考も身体から生み出されてるわけだから、自分の身体、例えば座ったり立ったりする姿勢の良さっていうのも、単に外見が綺麗っていうよりは、たぶん重力と自分の身体の関係ということになるし、呼吸も静かで、深い呼吸でって、初めて思考も落ちついてくるし、軸が通ってくるんじゃないかなと思うからね。
ワダ:
綺麗に立つだけで気持いいですよね。
藤田:
そうそう、そうです。その快感を追求するっていう。快感って荒っぽい快感じゃなくてね。性的な快感とか、ビール飲んでぷはぁ〜っていうような荒い快感ではなくて、もう少し洗礼された快感。。。 笑
何て言うのかなぁ、生水のおいしさとかね、空気の冷たさとか、そういうような快感ですよね。だから繊細で洗礼された快感を追求していけば、変なとこには出ないんじゃないかなと思いますけどね。
ワダ:
やっぱりそういう意味では、感性がなまっているっていうのかな〜現代人は、相当鈍感になっていますからね。
藤田:
うん。
ワダ:
そういう意味では、身体性を感じるっていうのが、一番近道なのかも知れませんね。
藤田:
だから、ある意味で危険なところに追い込んでいく。荒川修作さんじゃないけど、天命が反転する様な住宅やら公園を作ってるじゃないですか。あれって予測つかないような空間でしょ。
ワダ:
養老天命反転地ですね。転んじゃうって言いますよね。
藤田:
そうそう油断するとコーンってぶつかったりする。あーいうのがやっぱり人間には必要だと思う。
人間は、いつの間にか家畜化してきてるんですよ。便利なものいっぱい作って、感覚って変化に対してセンサーになるわけじゃないですか。あんまり変化のないようなのを自分の周りに作り出してしまうと感覚が鈍ってくる。
ワダ:
自動運転のクルマなんかまさにそうですね。
藤田:
そうそうまさに。だからやめろって言って・・・笑
でもこれは、どんどん進んで行くと思いますよ。人間のひとつの欲望の追求だと思います。
そりゃ〜楽々だ、便利だってね。でも、その逆の方向も必要だと思いますよ。ますます野生に返っていくっていう、カウンターバランスが必要なんじゃないかなと思いますよね。
ワダ:
僕は、出張でホテルに泊まるでしょ、そうすると暑くてしょうがないんですよ。
例えば、この庵は寒いじゃないですか。
藤田:
すきま風だらけでしょ。。。笑
ワダ:
でも何か気持いいんですよ。僕の以前の家は、断熱材もまともに入ってないような土壁の古い家だったから、冬はとても寒くて、そんな中で生きてきたから寒いのはいいんだけど、暑いのには比較的弱いんですよ。なので、ホテルの全館空調で暖かいと少し温度下げるのに、冷房したりするんです。
藤田:
はい。
ワダ:
やっぱり現代人、僕もそうなんでしょうけど、子供たちの世代は、自然に対してもっと鈍感になっていくというか、鈍って行くでしょうね。
藤田:
そうだよね。僕は平らなところばっかりに歩き慣れてるから、デコボコしてたり、この間先達と鎌倉の山上げしたけど、山って本当に根っこがあったり、滑りそうなところありって気をつけなきゃって、あの感覚目覚めるよね。
ワダ:
うん、そこ大事ですね。
藤田:
大事だと思うね。僕らやっぱり自然をしょってるというか、この身体って自然じゃないですか。ロボットじゃないわけだから、自然の延長線でここにあるわけだから。これはやっぱり、もうちょっと親しまなきゃいけないなという気がしますね〜。
けつまずいたら痛いし、時々風邪引いて熱出したりして痛みになったり、それからいつまでも綺麗でいたいけど、老いていくし、最後は死ななきゃいけない厄介なもんだけどさぁ。
でも、その厄介さが大事なんで、この厄介さを、便利さのテクノロジーに変えていこうというのは、いい面もあれば、人間をダメにしていく側面もあるからね〜。そのしわ寄せは絶対に来ますよ。
ワダ:
人間である以上、厄介ごとは取り除けないから、厄介ごとが蓄積されて、いつかその厄介ごとが、まとまって返ってくるなんていやですから、小さな厄介ごとをみんなで分散して処理したいですね。。。笑
藤田:
そうだね。俺の厄介さは誰かに押し付けてね・・・笑
この日本社会の厄介さを、どこか他に押しつけると、エントロピーみたいなもんじゃない。
エネルギーは保存されて変わらないんだから、どっかに行ってるわけで、そういう意識も持っとかないと、やっぱり自然界はつながってるから、絶対巡り巡って、人にした事は自分に還ってくるって思いますからね。
ワダ:
一照さんは、今後どんな感じの展開を考えられていますか?
藤田:
最近は、本当に求めに応じて、いろんな所に顔出して、いろんなことをやったり、いろんな人と話したり、忙しかったけれど面白かったですね〜。だから、今後もあんまり自分から出ていかないで、求めに応じて行こうとというのがひとつと、もうひとつはやっぱり本ですかね。
頼まれているのもあるけど、日本に帰ってきた時点で、ひとつ座禅に関してまとめたい事があったので、まとめたのを1冊書いたんですよ。それをもう少し進展した部分をもう1冊書きたいなと思います。
発信、求めに応じてプレゼントするのと、もうひとつは、僕が僕なりのやり方で発信するっていうその二つをやりたいなと思ってますけどね。
そのどちらも必要なのは、カルティベーションじゃないけど、僕自身の哲学ていうか、思索っていうのをもうちょっと深めたいっていうのはありますよね。
だから内側を耕して、外の求めに答えるカタチで果実を発信するっていうカタチで実を結ばせたいというのがありますよね。
ワダ:
今後の一照さんの活躍、ますます楽しみにしています。深くて楽しいお話、今日はどうもありがとうございました。
藤田:
ありがとうございました。
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藤田 一照 プロフィール

僧侶・曹洞宗国際センター2代所長

1954年、愛媛県生まれ

灘高校から東京大学教育学部教育心理学科を経て、大学院で発達心理学を専攻。

院生時代に坐禅に出会い深く傾倒。28歳で博士課程を中退し禅道場に入山、29歳で得度。

33歳で渡米。以来17年半にわたってマサチューセッツ州ヴァレー禅堂で坐禅を指導する。

2005年に帰国し、現在、神奈川県葉山の「茅山荘」を中心に坐禅の研究、指導にあたっている。

曹洞宗国際センター2代所長。 著作に『現代坐禅講義 - 只管打坐への道』)、共著に『アップデートする仏教』、訳書に『禅への鍵』『ダルマの実践』『フィーリング・ブッダ』など

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