今回のクエストカフェインタビューは、奄美大島のステンドグラス・アーティスト、クマさんこと熊崎浩さんに登場いただきました。自然豊かな奄美大島で、自然をリスペクト(尊敬)し、自然との対話を大切に生きるクマさんのライフスタイルや海とサーフィン、クマさんが奄美に暮らすことになったお話など、深く、興味深いインタビュー。奄美大島のクマさんの工房で話を聞きました。ぜひ、お楽しみください。

Contents

取材後記

自分らしい生き方を求めて

ワダ:
クマさんは、もともと静岡出身で、10年前に奄美大島に移住したということなんだけど、奄美大島に暮らすことになった経緯などから教えてもらえますか。
熊崎:
僕は、若い頃からサーフィンだけはずっと続けてきていて、波乗りをするようになってから旅を始めたんだけど、結局、旅の目的がサーフィンじゃないですか。だから、必然的に海辺の波のいい場所を選んで、そういう所で波乗りをしながら暮らすというライフスタイルを作りたくて、どうしたらそうなるのかなってずっと思っていたんですよ。
過去にはサラリーマンなんかも経験しているんだけど、後ろを振り向いた時に、直属の上司から同僚まで、自分のなりたい大人像が一人もいないことに気づいたんです。
ワダ:
それはいくつくらいの時?
熊崎:
20代前半の時ですね。それで、ここにいても意味がないなって思って辞めてしまって。高校生くらいからサーフィン初めて、もともとはカルフォルニアのサーフカルチャーに憧れてたので、やっぱり日本を出て海外に行きたいなって漠然と思っていたんです。でも、結局ビザが取れなくて、オーストラリアへ行ったんですね。
そこで波乗りが「あー、これは自分のライフワークだな」みたいに思える経験がたくさんあってね。それで、日本に帰って来た時には、もうサラリーマンにはなれないですよね〜。
ワダ:
確かにね。
熊崎:
それで次の目標ができたんです。それはオーストラリアに移住することだったんだけど、その時に漠然と「モノつくりになりたいな」と思って。でも自称アーティストって言ったて、絵描いても食っていけないし、どうしようって思ってたら、たまたまステンドグラスと出会って、西洋工芸だから、これで向こうで仕事ができないかなって思って。
ワダ:
オーストラリアの工房で働く感じで・・・
熊崎:
そうですね。でも飛び出して行ったはいいけど、そんな簡単に仕事なんかなくて、しらみつぶしに探した中から、たまたま幸運にもひとつの工房が拾ってくれたんです。
向こうって、丁稚みたいなことはなくて、作れて初めて仕事だから、もう実践がそのまま下積みになっていくんですよね。
ワダ:
OJT=オン・ジョブ・トレーニングね・・・
熊崎:
そう、そこからモノづくりの世界に入ったわけです。
でも、最初は見慣れない大きなパネルとか作ったり、すごく面白いんだけど、モノづくりの人たちって、みんな器用だから、技術が分かってくると、やっぱり欲が出てくるんですよね。自分のオリジナルが作りたいとか。
自分も若いし、これからどうするかって考えた時に、二つのパターンの姿が見えたんです。それが商業系の工芸家とそうじゃないオルタナティブ系の人。
ひとつは都会で、設備投資して大きな機械がある大きな工房を持って、量産効率を上げてバンバン作っていく。都会では、そうやっていかないと回っていかないんですよ。
出ていくものも大きいけど、入ってくる実入りもいいから。それでボート買って、余暇は海に出て、デカい魚釣ってくるタイプの人。
その人も、僕が仕事ない時に仕事をくれたりとか、余暇には遊ばせてくれたりして「ああ〜こういう成功例もあるんだな」って思ったんですけど、なんかこう違和感があったのね、自分はそうじゃないなっていう。
ワダ:
なるほど。
熊崎:
いろんな工芸家さんに会ったんですけど、もう一人の工芸家さんが、もうリアルヒッピーなんですよね。街じゃなくて、山奥に住んでいるんです。
昔はヒッピーコミューンだったようなところに住んでいて。そこに遊びにいったんです。ヨシノアイさんって言う、有名な日本人の木工芸家がいるって聞いて。
当時はまだインターネットもなかったから、僕も貪欲で、いろんな工芸家が雑誌に出ていたので、雑誌社に連絡して、この人の住所どこだって聞いて。
外国人、日本人問わず、そういう情報を集めては、チャンスがあればそこに行ってみる。いろんな人がいるんだけど、みんな田舎暮らししているんですね。
ワダ:
うん。
熊崎:
なぜ彼らが田舎暮らしをしているのかって言うと、人に媚びないで、自分の好きなものを作ってるんですよね。自分の好きなものを作るって、けっこう売れないんですよ。
彼らがやることって言うと、その見返りっていうのでもないけど、だいたい山の中で百姓しているんです。
ノアイさんに至っては自分で植林する。木を育てる。それを伐る。お金のかからない土地を自分で開墾して、家を自分で建てて、蒔も自分で割る。食べ物も自分で作る。伐ったらまたもう一回育てる、電動工具と言えばそれを伐るためのチェーンソーと細かい糸鋸、その二つしか持ってない。
ワダ:
彼は木工作家?
熊崎:
そうですね。全部手で掘っているんですよ。全部カーヴィングして、器を作ったりとか。いろんなことしている。
それで、裏山を見ると、素朴だけど素敵な、自分で建てた天然素材の家があって、それがどんどん建て増しされて。生活に応じてとか、子供の成長に応じて作っていく。必要な物だけ自分でね。
僕は、そういうものを求めていて、そのモデルが欲しかっただけで、ああやっぱり、こういう風にやり通している大人がいるんだ、俺もいつかこっちの道に進んでいこうって思ってたんですね。でも、ビザを持って、シドニーの工房で雇われてたので都会から離れられない。そういう欲がなければ、確かにシドニーもいいところなんですよね。都会って言っても郊外は緑が多いし、波乗りの環境も整っているし。
でもそこを核としたライフスタイルのイメージが、自分の中にできあがっちゃったんです。そんな生き方がしたいって・・・
ワダ:
今の暮らしは、そのまま実現されちゃってる。
熊崎:
そうそう、当時はそれをオーストラリアの外れでやりたかったんだけど、子供が生まれたりとか、オリンピックがきたりとかで、違う意味でオーストラリアが盛り上がってきちゃって。僕の好きなオーストラリアが消えていっちゃったんですよね。
ワダ:
その時はシドニー?
熊崎:
そう。でも結局、その経済発展の波は、いまもそうなだけど。お金がないといい環境、のんびりした環境は得られないくなってしまって、まあ、そんなんだから、もうシドニーから出ようと。
ワダ:
その時は、いくつくらいだったの?
熊崎:
30歳ちょい過ぎくらいかな。
ワダ:
ヒッピーのコミューンみたいな所に行った時というのは、もっと若い時?
熊崎:
いや、その当時ですよ。ヨシノアイさん、彼なんかは、僕より20年くらい早く入っているから、もっと経済成長していない、あか抜けてない田舎の場所でフロンティアを見つけて、家を建ててっていう生活ができちゃっていたの。
長く暮らしてると恩赦も出て、永住権あげちゃいますよみたいな感じで。
僕の時はもうそんなの許されない。日本人に対しては、永住権を取れるっていったら、会計士とかドクター。要は都会でお金を作れる人。稀に日本人シェフ。何故かと言うと、日本食レストランでヘイ、いらっしゃい″って言うのが日本人じゃないと様にならないでしょう?
ワダ:
うん。
熊崎:
だから、なかなか僕みたいな工芸家は、永住権を取りにくくて、何らかスポンサーシップが必要なんですよ。
自分の好きなモノを作りたい・・・作れないんですよ。ビジネス成り立たせて作りたかったら、設備投資してどんどん注文もらわなきゃいけない。でもそういう工芸家には全然興味がなかったからね。ある意味、ここはもう自分の場所じゃないな、オーストラリアの田舎に行きたくても、田舎に行ったらスポンサーがいなくなるし、それを探すこともかんがえたんだけど、もうそれより何よりも、人の下で働くのはもう辞めようと思ったんですよね。
ワダ:
それまではステンドグラスの工房勤務ということ。
熊崎:
そうです。だから9時から5時。サラリーマン工芸家。実際には、自分のガレージに工房作って、夜中とか週末に細々と自分の作品を作って、サーフショップに売ったり、日本に輸出したりとかしてたんですけど、それを逆転させたかったんですよね。それで、日本人なんだからもう1回日本に戻ろうと思って。
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奄美大島との出会い

熊崎:
働いてたから会社でワーキングビザを取って、まだ5年以上残ってたんですけど、その5年間を我慢して次に行くってことはできなかったし、その5年後に自分が永住権を取れてるかどうか、取れてたとしてもオーストラリアという国がどんどん変わって来て、自分が理想とする場所が無くなって来てる中で、果たして新たな場所が見つかるのか?そのリスクとかを考えてたら、一回日本に帰ろうかってことになった。でも自分はこうでありたいという工芸家像は変えられなかったから都会とか、東京には帰れないわけですよ。
だいたい日本の工芸家って、みんな長野とか飛騨とか山に入るんですけど、でも最初に言ったように、何で自分が海外に行ったり、新しい新転地を求めてずっと旅してきたかって言ったら、波乗りなんですよね。
山に行ったらサーフィンできないじゃないですか。そうすると島だっなて。日本は島国なんだから、絶対いい島があるはず。
できたら何も知らない未知の世界で、ゼロからやってみたいな。なるべく原風景が残っているような場所。なぜかって言ったら、ステンドグラスはやるつもりだけど、それでどれだけ生計がたつのかわからないから、できることなら自給自足をするような、百姓のように何でもできる様な、なんでもクリエイティブできるような人になりたい。そんな場所で始めたいと思った時に、奄美がでてきたんですよね。
ワダ:
島へは、とりあえず行ってみようかっていう感じで?
熊崎:
知らないところへの想像って膨らむじゃないですか。それで1週間くらい。その時、迷走台風でずっと波があって、とてもいい波に乗らせてもらって、最終的にはその波のおかげで、ここでやって行こうと決めたんですけど。
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▲ 奄美大島でのこの波が、クマさんの移住を決めさせた。
要はね、シドニーで上手くいっていない状況から逃げたいわけじゃないですか。その逃げるきっかけ、次はここで頑張れるだろうってきっかけが欲しいんだけど、そのきっかけが1本の波だったというだけですね。
ワダ:
他のエリアは全く考えていなかったの? 島で波が立つ場所って、そんな多くはないよね。
熊崎:
当時って、ちょうどインターネットが入ってきて、市町村もインターネットでいろいろ発信し始めていて、でも、そんなの読んでいてもバーチャルではうまく伝わってこなくて。思い返してみると、そんな情報って必要じゃなかった。
やっぱり、その当時から田舎への憧れがあったのかな。ある時、友達のやってる中華料理屋で、友達と飲んでたんだけど、たまたま隣が、奄美の子たちの同窓会っだったの。
ワダ:
へえ〜
熊崎:
それで、君たち奄美大島なんだ!って。当時は奄美ってサーフィンって全然有名じゃなくて。でも一度、雑誌で種子島・奄美大島って特集されたの。それを覚えていたのね。
種子島がその時は好印象だったんだけど、なぜかっていうと種子島の方が近いしメジャーだから、写真が残っていたの。奄美大島の方は地図だけでそんなに情報がなかったから。でも印象は薄かったけど奄美っていう名前は覚えていて、そういう島があるんだなって。
話していたらさ、その子たちもうすごく純で・・未だに日本でさぁ、全然すれていない。純粋な子たちが育つ場所があるんだなってすごく思ったんだよね。
もう80年代の僕らの時代って、なんだろう。もうギュウギュウだったじゃないですか。
ワダ:
その頃、バブルが一気に押し上げてくる時代感があったからね。
熊崎:
そう。公立の中学校とかさ、もう校則でがんじがらめにしてさ、校内暴力が起きたり。それでロックが出てきて、もっと自由になれって言って反抗して。自由になりたいがために、みんなバイク盗んで、暴走族になるか、サーファーになったんですよね。軟派系はサーファー。
ワダ:
笑 もともと出身はどこだっけ?
熊崎:
静岡です。結局ね、中学のそういう環境がイヤでイヤで、そこから旅が始まっているんですよね。もうどっかに出たい、どっかに出たいって。
ワダ:
海へは小さい頃からサーフィンはしていたの?
熊崎:
いやいや、高校の1年生の時に関東に出て、それで友達に連れてってもらった湘南が初めてです。
ワダ:
そうなんだ。じゃあ静岡出て、東京の高校へ行ったんだ。
寮とかじゃなくて?
熊崎:
それがね、寮に入れさせるつもりだったみたいなんだけど、たまたま僕が入る前の年に問題を起こしたらしくて、寮が廃寮になっちゃったの。
ワダ:
へえ!
熊崎:
それで寮がなくなっちゃったから、全員アパート暮らししてくださいって。へ〜ラッキーって・・・笑
ワダ:
ロクなことにならないね・・・笑
熊崎:
ロクなことにならないですよ。もうそれで、そこからは大変です。
ワダ:
自炊で?
熊崎:
そうそう、自炊で。ロクなものも食わなかったし。全てが自分の城になって、なんでも自分の判断でできちゃうから。ひどかったですよ。
ワダ:
親は時々来たりしなかったの?
熊崎:
まあ、もちろん来たりはしましたけど、落ちこぼれに向けての羽が生えましたね。
ワダ:
なるほど。その後、大学へ?
熊崎:
はい。学生時代はダークサイドが多いので。その時は、自分では全然ダークサイドって思っていないですよ。でも、今こうして、少しずつ大人になってくると馬鹿な時代を送ったなって。でも、まあそれが必要だったんでしょうね、当時の僕にはね。
ワダ:
波乗りはそんなに真剣じゃなかった?
熊崎:
いや真剣でしたね。でも真剣が故に、なんか電車で行ったり、行ってもいつも小さい波だったりとか嫌気がさして・・・湘南じゃなくて別の世界見たくなって、常に新しい刺激ばっかり求めてて・・・カリフォルニアへ行きました。大学へ留学したんだけど、結局、そこでまたドロップアウトして、大学行かないで、もうずっとサーフィンしてた。
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サンディエゴだったんだけど、あそこ行ってからもうだめですね。ドロップアウト・・・
自分でも捉えどころのない変な奴だったんだよね。だから同級生なんかは、お前ホント昔から変わり者だったよなって言うね。
ワダ:
まあ普通の人からしたら、今も変わり者だよね・・・笑
熊崎:
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とにかく逃げ出したいと思っていた中学時代

ワダ:
お父さんはどんな人だったの?
熊崎:
ああうちの親父は堅いひと。戦争も知っていて文学大好きだし、お能の師範もしていたりとか。
ワダ:
子供の頃とか教育は結構、厳しかったの?
熊崎:
うん、厳しかったですよ。でもそれ以上にやらなかったですけどね・・・笑
ワダ:
なんで逃げ出したかったのかな?
熊崎:
僕からしたら、なんでみんな逃げ出したくないのかなって思うんだよね。
なんかさ、特に中学校に入ってからかな、理不尽じゃない?坊主頭はいいにしても1センチ伸びたくらいで、なんで先生は殴らなきゃいけないの?なんでボタンの数がヤンキーファッションで3つになったら怒るとか。そこらへん全然意味通じなかったね。どう理解しようとしても、なんぜ3つじゃダメなんだって思うわけ・・・笑
ワダ:
そんな時代だったよね〜
熊崎:
なんでそんなにまで、みんな一緒くたにしたがるのかなとか。サーフィン始める前は、普通にクラブ活動入って、バレー部入って15対0でセット取ったんですよね。でも1回サーブ権を相手に与えたっていってビンタされて、俺、体罰別に悪いと思わないけど、そこビンタするところじゃないだろうって。
なんでみんな、そんなところから逃げ出したくないのか、なんで先生の言うことを、素直に「はい」って聞いているのかなって。バカらしくなって、そこからもう練習とか全然行かなくなって。
でもね、なんかヤンキーみたいに徒党を組むのはすっごい嫌だった。友達はみんな好きだったんだよね。なのに中学入ってから優等生と劣等生とどんどん分かれていって、グループになっていくの。だから一人ひとり会うとみんな好きなんだけど、どっちかのグループになっちゃうと、どっちにも交われなくなるでしょ。
親は親で、いい方のグループと付き合いなさいって。それも言われたくないでしょう。だって小学校だった一年前までみんな友達だったのに、なんで中学入ったら、こんなに変わっちゃうのって。こんな社会嫌だって。
親が勉強しなさいって言ってもやらないでしょう。それで、成績も悪くなってきて、行ってきますって言って、学校にも行かない。不良の友達のところに行って、RCサクセションだけですよ。
歌詞通りトランジスタラジオ持って、屋上でタバコふかして寝てたっていう世界。
ワダ:
笑・・・絵に描いたようだね。。。
熊崎:
そう。それで授業が終わったら教室行って、先生の出席簿書き直しちゃって。たぶん親も知らなかったと思うし、先生もイチイチ面倒くさいから、わかっていても指摘しなかったし。テレビつければ金八さんでしょう。腐ったミカンじゃない!って。
そんなんで、親は、当時すごく手を焼いていたと思うんです。地元の高校にいてもロクな高校に行けないし、内申書がとれないから。オヤジはけっこう頭良くて、いい高校出ていたりして、オヤジの同級生ももちろん頭が良くて、結構みんな地元でしっかり商売していたり。なのに、全然俺なんか思うようにならないから。そういう時に親が持ちかけてきたの「お前、せめてこのレベルの高校に入れるんだったら、東京出てみるか」って。
ワダ:
うん。
熊崎:
うわ、出れるんだ!って、この街から出れるんだって思って、中3の1年間ものすごく勉強した。
それまで塾行けって言われて、行ってきますって言って本屋でマンガ立ち読みしてたのに。もう中3は本当に真面目に勉強した。でも塾じゃ追いつかないから、自分から家庭教師つけてって言って・・・笑
ワダ:
すごい集中・・・笑
熊崎:
だから中3の一番最後の期末試験だけはすごく成績良かったですよ。でも、私立だから国・英・数だけですけどね。僕の一人暮らしには、そんな流れがあったんですよね。
ワダ:
あまりにどうしようもないから、親も少し外に出しせばかわるだろう、みたいなつもりもあったのかもしれないね。
熊崎:
僕にしたら、このチャンスは逃すかって・・・笑
ワダ:
熊崎:
仕事にしてもハッタリかますことってすごくあって、オーストラリアでは小さなクラフトはあまり作らないんですよ。建築のパネルしか作らないの。それで面接行った時に、こういうパネル作れるかって聞かれて、作れないって言ったら絶対仕事にならないと。・・で、作れるってハッタリかまして。でもなんとか一日で作り上げるわけね頑張って。そうすると認められて、じゃあ仕事あげるってなってくるんで。
若い頃はそういう風に勝気であってもいいと思うんだよね。今はジェネレーションギャップがすごいもんね。今の若い子見ていて、コイツ何やりたいんだろうって思うけど。でもまあ、これだけモノが溢れていて安定した世の中で何を求めているかって・・。
ワダ:
去勢されているようなね。なんでみんな逃げ出したくないのかなっていう感覚は、本来はそれがみんな当たり前なのかもしれないし、そういったのが小学生の頃から社会や世の中の仕組みに対する違和感を感じちゃいけないような感じに育てられているところがあるよね。
熊崎:
なんか洗脳っぽいんだよね。僕は常にすごく違和感を感じてた。
ワダ:
カリフォルニアやシドニーに暮らした感覚だと、水が合うって言うか、いろんな人がいるから、すごく共鳴するんじゃない?
熊崎:
ですね。変わり者だって別に。
ワダ:
向こうじゃ変わり者じゃないでしょう?
熊崎:
そうそう。行く場所によっては、変わってなきゃいけないくらいの・・・まあ保守的な場所もたくさんあるんだろうけど。カルフォルニアとか、あのへんは逆に変わってなくちゃつまんないよっていうノリでしょう。あの年齢の時には心地よかったんですね。今は別にそれがいいとは思わないけど。
あの頃にひとつの居場所を見つけた感はあったよね。自分のコンプレックスがどんどん消えていったから。小さいなあ、俺のコンプレックス。結局、小さい街にしかいなかったから、小さいコンプレックスしか抱えてなかったんだけど・・なんかそういうのもバカバカしくなって。
ワダ:
でもアメリカへ行って波乗りしているとね、波のスケールも違うじゃない。自然のスケール。そういった中で揉まれた中で、そういう気づきもあったんじゃないかな?
熊崎:
アメリカでもバカやって大人に怒られたりしたし。そこで気づくからね。これじゃダメだなと。その気づきが一番大きかったのがオーストラリアだったな。アメリカよりも全然大きかった。
ワダ:
アメリカから日本に帰って、普通に会社員とか働いたりしたの?
熊崎:
うん。結局、一回戻っちゃっているよね。だから、僕には、アメリカは気づきがそんなに大きくなかったんだろうね。
結局、アメリカ行くビザもなかったし、それでオーストラリアに。
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旅から学ぶ大切なこと

ワダ:
オーストラリアへは、初めからコミューンみたいなそういう場所狙っていたの?
熊崎:
オーストラリアって国自体なんにも知らなかったのね。アメリカに行けないので、しようがないから選んだ場所。
今のカミさんとまだつきあってた頃一緒に。彼女が先に仕事辞めたのかな。彼女もカルフォルニアが好きで、行きたいねって言っていて。
旅では行っても観光ビザじゃ3ヶ月しか行けないし。どうしようって言ってたんだけど、ワーホリっていうシステムがあるからそれ使って、オーストラリア行こうって言われて、そうするかって会社辞めちゃったんだよね。
オーストラリアに行ってみると、超田舎臭くて、最初はダッサイなーと思ったんだけど、そこのダサさの中になんていうの、人間の本質が隠れているというか、カッコよさがあるっていうか。
ワダ:
そこは何がダサいと感じたんだろう?
熊崎:
ファッションよ。
ワダ:
ファッション!
熊崎:
だっさいカッコしている。オシャレじゃない。でもリアリティがあるんですよ。
結局、生活ってリアリティじゃないじゃないですか。ファッションはファッションだけでしかない。。でも奴らのサーフィンは、もう本当にライフスタイルだし、みんなサーフィンうまいし。
基本男は強いし、力持ちだし。田舎も都会も関係ないし。
例えば、田舎にしても第一次産業があって初めてみんな食えるわけじゃないですか。だから、それを支えている田舎の人たちの方が全然強いんだよっていう感覚がそれまでなかったんだよね。何でもスーパーで買えるから。
もう今の僕なんかは正反対じゃないですか、奄美で普通に鳥は絞めるし、魚も絞めれるし、必要とあらば豚もヤギも絞めますよ。でもそれによって、本当の「いただきます」がわかるんですよね。絶対無駄にしない。
ワダ:
命をいただくからね・・・
熊崎:
うん。
ワダ:
ワーキングホリデーだと、向こうでは何か働いていたの?
熊崎:
ワーホリの時は、仕事とか考えていなくて、日本は丁度バブルの終わりの時期でね、土建関係の仕事したらあっという間にお金貯まるんで、もうバアーってお金貯めて、あとは向こうでサーフィンして遊んでね。1年間それを使い果たして、だからずっとロードトリップですよ。
ワダ:
その頃、オーストラリア中をサーフトリップしたのね。
熊崎:
そうそう。コースト横断。野宿しながら。
ワダ:
そういう旅、そういう青春時代っていうのは、その後の人生に大きな影響があっただろうね。
熊崎:
とても大きんじゃないですか。旅しながら、違う場所でいろんな知らない人に出会って、話して、いろいろと体験して、必要だと思いますよ。いろんなカッコイイサーファーにも会ったし。
ワダ:
じゃあそうやって旅しながら、その時々はただ楽しむことが中心だったかもしれないけど、こんな奴にはなりたくないなとか、こういうのはカッコイイなとか、そんな生き方のイメージが見えてきたのかもね。
熊崎:
ありますね〜、それは。その幅のバラエティは、旅をして、若いうちに増やしておいたほうがいいなって思う。会社にいたら本当に狭いじゃない。
ワダ:
こんな人いたんだ!みたいな人に出会うから。
熊崎:
そう。だからそうい風になってくると“○○ってう国が嫌い”じゃなくて、アメリカと付き合うんじゃなくて「アメリカ人」と付き合うし、オーストラリアだったら「オーストラリア人」と付き合う。政府と付き合っているわけじゃない。だからもう宗教も超えちゃうし、中国人だって面白い奴たくさんいるし、どこの国でも悪い奴もいるけど面白い奴もいる。でも悪い奴の中に、ユーモアのセンスがあったりとか、いい奴の中に、なんかこれは許せないっていうモラルの悪さがあったりとか。
ワダ:
なるほどね。
熊崎:
それが見れるというか、それを見るのが旅ですよ。
なるべく若いうちにそれができたらいいなって思うけどね。なかなか日本では、若い子には旅をさせる環境を与えるっていう社会じゃないですよね。
ワダ:
何かを学ぼうと旅するより、なんでも体験しよう、楽しもうって好奇心で旅する。
熊崎:
結果的に、学びがある。自分の欲を満たすため。いい波を得るために。だからインターネットもよし悪しかもね。それを求めるためにまずパブに行って飲むわけですよ。
お前ら何やってるんだ、どこから来たんだって絶対寄ってくるから、今こういう感じで旅してるんだって言ったら、じゃあそのルート内で、次はどこどこに行けって。そこはいい波だから絶対そこでストップしろって。新しい情報が手に入るわけですよね。
ワダ:
場合によっては、シークレットのローカルポイントなんかでも、入れてやるとか。
熊崎:
そう。だからそこに行ったら俺の友達の何々って奴がいるから訪ねてみろよとか、そういうナマの情報が入ってくる訳じゃないですか。それがすごい面白いのにバーチャルにネットで見て、それで行った気になっちゃうっていうのはすごい寂い。
ワダ:
考えるより、やってみる。
熊崎:
田舎に行けば行くほど保守的なところもある。でも向こうも見ているから、見られていることを意識しながらやっていけばいい。
でも、あまりお行儀よくしすぎても何も得られないし、特にオーストラリア人はアグレッシブだから、、逆にお行儀よく、いつまでもいい子でいたら波になんか乗られないですね。もうここは、ちょっと殴られてでも突っ込むかぐらいの気持ちも必要。
ワダ:
ケンカとかになったりはしたの?
熊崎:
いや、それはならないです。でも、ここはお行儀よくしていてはダメだろうみたいなのは、もう大きな声張り上げてでも突っ込むよね。
ワダ:
今までで一番良かった、記憶に残っているのは場所は?
熊崎:
オーストラリアはどこだろう・・・やっぱりマーガレットリバーエリアとサウスオーストラリアのカクタスっていう、もう本当に砂漠の半径20キロ以内は誰も人が住んでいないような所に、地下水と青空便所がひとつだけあるキャンプ場があって、砂漠のド真中ですよね。そこで割れてる波、そこが一番だったかな。
ワダ:
人もほとんどいないの?
熊崎:
いやローカルいますよ。四駆に乗ってやってきますよ。ベノングとか近くの街から。近くって言っても何十キロも先ですよね。30〜50キロとかドライブして。
ワダ:
オーストラリアはスケールが違うね。
クマさんのような人生体験はなかなかできないね。僕は、こういう体験からどんな人生が生まれるのかがすごく興味あるな
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ゼロから築きあげなくてもいい

熊崎:
いつも旅しながら考えていたのね。俺はいつ自分で立ちあがって、自立して、何ができるんだろうって。自立っていうのはね、ああいう個人主義の国にいたから、その時には常に自分でやろうって気負っちゃうの。ゼロからやって初めてスゴイみたいな。僕の場合は、高校だって親が出してくれているじゃないですか。いくら反抗したって、母親は夕飯作ってくれるワケよね。その愛情が一番基盤にあるから、例えば外に出て悪い誘惑っていくらでもあって、でもそこから先に足を踏み入れたりしちゃった奴は堅気じゃなくなったり、命失ったり、友達失ったりしているんだけど、僕の場合は悪いことさんざんしてきたけど、自分でどこかでストップかけているんだよね。
ワダ:
うん。
熊崎:
それって何なのかなって思った時に、やっぱり悲しい思いさせちゃいけないな、もちろん家族、親にね。そこがあって、年齢も重ねてきて、オヤジが病気になり亡くなり、母親が亡くなりした時に、自分が家長になっていくうえで、オヤジが亡くなる時に一言だけ「お前お墓だけは守れよ」って言われて、俺も「おお守るよ」なんて軽く返事してたんだけど・・うちは禅寺の檀家なんです。
ひいおじいちゃんが岐阜から静岡に出てきて、お寺は岐阜にあるんです。禅寺は、私寺じゃなくて住職が亡くなったり、隠居したら新しい住職が臨済宗の本部から送られてくるんだけど、規律とか宗教心に対してすごく厳しくて。
それも、その時の住職にもよるんですけど。
ワダ:
なるほど。
熊崎:
だから、お布施がちょっと足りないとかそういうのは全くないんですよ。その代わり宗教心に関してはこんこんと説教される。
オヤジに墓守れなんて言われたんだけど、オヤジが亡くなった時、お袋が亡くなった時に戒名くれって電話したら「お前なんか檀家じゃない」ってはねられて戒名もらえないわけよ。
もう死んじゃってるし、戒名くれないしどうするみたいな。「だって、お前なんかと付き合いはないじゃない」って。
そりゃあ、永代供養料は払っていますよ。本堂にあなたの家の位牌はあります。お墓もありますよ。お墓の供養は勝手にしてください。でもお前なんか檀家と認めていないよって。もうそっから怖いし、電話するのも嫌だし。
ワダ:
へえ・・・笑
熊崎:
結局言ってることも、向こうのほうが全く正しいですよ。全く宗教心もなくて、必要な時だけ来て戒名がほしいってどういうことだって。俺は葬式屋じゃないんだって。ホントの宗教人なんだよね。その人と禅問答しちゃったらかなわないよね。
ワダ:
骨のある坊主だね。
熊崎:
かなわない。だけど、俺家長になっちゃったし。じゃあ家のこと何してるかっていったら中学から反抗して、それをネタに家を飛び出して、そっからずっと自分で見てきたようなフリしてるけど、結局、親の愛情の元で見させてもっらっているわけじゃない。アメリカだって、オーストラリアだって。
そうやって見てきて、自由に羽ばたいて、長男なのに全部家ごと姉貴に任せてきて。親いなくなっちゃって、こりゃあどうしたらいいって。試練がやってきた。
親父は、墓を守れって言ったでしょう?守るよって言ったけど、これ守りきれないじゃんみたいな感じで。もう住職も、もうわざわざ岐阜まで来なくていいよって、近くのお寺紹介してやるからそこにしなよって。親戚のオヤジなんかも、みんな怒鳴られるから。結局、ほとんどの大人が、太い宗教心なんか持っていないじゃないですか。
ワダ:
ないね〜
熊崎:
だから、そんな叔父さんたちも「俺ん所のお墓に移せ」とか。でもそれも結局金だし、なんかそうじゃないなって思って。で、怖いけどその和尚と少しずつ会う機会を増やしていって「私って何ですか?」って聞かれて、俺答えられなかったんだけど、結局、私って祖先から、これから生まれてくる子供への繋がりで、そこで誰が一人欠けたって私が私でなくなっちゃうじゃないですか。そういう家族主義の国に、俺は生まれたんだなって思って。
ワダ:
会いに行くと禅問答になるの?
熊崎:
必ずなりますね。正座させられて何時間も。
ワダ:
うわ、、、それはきついな・・・笑
熊崎:
あと一つ思ったのは、中学の時の先生みたいな理不尽なのは嫌だけど、ぼくにはそういう筋の通った怖い存在は必要なんだなって。
ぼくは、家族・親戚の中でも異端児だったのに、親がいなくなって、それを家長としてまとめなきゃいけなくなったのね、その時に今まで何もやっていなかったギャップと、家長と言っても一番年下じゃない。自分の意見をいうのが家長じゃなくて、この人たちの意見をちゃんと聞いて、ただそれをまとめるだけのものであって、例えば、相続にしても、それは自分のための相続じゃなくて、家の物がただ単にぼくの名前になっているだけであって、それは私の物ではなくて、それは自分の家族だったり親族だったり、それを必要とする人たちの物で、自分の物ではないから。そうやって自分の物でなければ、ゼロを一から作らなくてもいいんだなって思った。
ゼロから何かを築き上げなくても、それを使って自分だけじゃなくて、周りが何か有益なものを得ていければ、別にそれって甘えていないし、自立していない訳でもないから、ただ単に、私が繋がっている中できたものだ。それを思ったらすっごく楽になったね。
ワダ:
それまでは全部自分1人で作らなきゃいけないと思い込んでいたんだね。
熊崎:
思い込んでた。
ワダ:
それはオーストラリアにいた頃?
熊崎:
いや奄美に来てからも。オーストラリアにいた若い頃は、何が自分にできるかって。できない自分がイヤでイヤでしようがなかった。何かやらなきゃって。それもなるべく人の下で働かないで。それと人の下で働くことによって、文句とか愚痴が生まれるでしょう?あれが嫌で繰り返したくなくて。多分、ぼくの性格だったら、何をやっても、最初はよくてもいつか愚痴を言っている自分がいる。でも、自分でやったら自分のケツは自分で拭かなきゃいけないじゃないですか。それをやりながらも、目の前にいるカミさんとか、息子のこと何とか食わしていかなきゃいけない。勝手に背負って、全然視野が狭かったんだよね。
奄美に移ってきて、俺はこういう工芸家でありたい、自分の好きなモノを作りたいっていう欲をとおして、ここに来て、家作ったり開墾したり。それは、自分の欲のまま動いているだけなんですよね。生活は自分だけのものじゃない、まわりあってのものなのに。
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頭の中に浮かんだものをゆっくりカタチにしていく

ワダ:
オーストラリアで、ヒッピーコミューンみたいな場所で、パーマカルチャーっていうところに興味を持ったのは、全部ゼロからやらなきゃっていうところと繋がって、これだなっていう感じがあったのかな?
熊崎:
そうですね。要はあのヒッピーっていう人たちは僕と逆で、ヒッピーコミューン作って、自給自足してやっていったって、結局お金が必要だから、何かしようっていうんで、手っ取り早く工芸品作ったりとかして生計を立てていたわけでしょう?
僕は、自分の作りたい工芸品を作りたいが故に、でも媚びて作るんじゃなくて、自分が作りたいモノを作りたいから、でもそんなに注文もこないだろう、じゃあ注文のこない間はどうしよう、じゃあなるべくそのリビングコストも、自分の手を使うことによって減らそうと思ったんですよね。それをパーマカルチャーって言ったほうがカッコイイなって思って。
でもやっていることは百姓だし、考えてみれば日本の原風景になるような奄美に帰ってきて。もともとは日本はそういう国だったでしょう、農耕民族だからね。。
ワダ:
例えば、家を建てるといっても、区画整備をされた土地を買って、住宅メーカーに注文して家を建てるとか、もしくは建売を買うわけじゃない。それは会社で働いてるから、建てる時間もないし、ノウハウもないしって考えれば当たり前、そもそも家っていうのは買うもの、そんなパターンの中に多くの人が生きているでしょう。
本当はクマさんが言ったように、リビングコストをかけないで自分で作ればいいし、家でも自分で建てればいいしっていうような、いろんな選択肢がないっていうか、考えることすらしない人が多いから。
熊崎:
ないかもしれないけど、その代わり安定した収入はありますよね。僕はどっちかというと、安定した収入よりもたくさんの時間のほうが欲しかったので。自由にできる時間。
ワダ:
家を自分で建ててみたいって前からあったの?
熊崎:
僕は始まりが最初から全然違って、ただの箱が欲しいんじゃなくてランドスケーピング。だからそこにパーマカルチャーも絡むんだけど、50坪の土地じゃだめなんですよね。最低でも何百坪っていう土地があって、その土地に、例えばここに水を引いてみよう、ここに畑を作ってみよう、ここにこの木を植えてみよう、石垣を作ろう、生垣を作ろう、その土地の中でここの場所に家があって、デザインがあって、どっち側に山があって、どっち側に海があって南がどっちで東がどっちって、そういうのを全て頭の中にデザインしたのを形にしていく作業なんですよね。
ワダ:
なるほどね。
熊崎:
普通の人が家を買うっていうのと、最初が全然違う。頭の中に浮かんだものを、ゆっくりゆっくりカタチにしていく作業だから。
ワダ:
昨日話していて、芝生ひとつとってもね、ここを全部芝生にしますって業者呼んで、そこを整地して芝生を全面に植えていくらっていう感じで工事完了みたいな、じゃなくてたった一つの30センチ角の芝生の株があれば、10年くらいかけて増やしていけばいいと。
熊崎:
そこに自然の動きも読めるし、雑草をもコントロールできたらすごいなとか、そういうふうにいつも思うの。この雑草たちをコントロールしきった時に、自分の庭ができるなとか、木も苗の時から人間が手を加えて剪定することによって樹形が決まってくるのに、最初からデカイ木を植えてデカイ公園作る訳じゃないんだから。そこじゃなくて、ちっちゃい苗なら100円、200円で売ってるんですよ。それってケチなんじゃなくて、そっからどういうふうに自分の庭に合う形に誘引したりとか、剪定したりして変えていくか、その作業が面白いのね。だから創造なんですよ全て。
ワダ:
家もねすごく感動したんだけど、ひとつ一つがこの時こういうことあったなとか、全部記録に残っていくのが素晴らしいなと思ったんだよね。
熊崎:
そうですね。記録もそうなんだけど、 ひとつ 一つのことが、これどうするんだろう、昔の人はどうしてたんだろうとか、こういうのに長けているいる人はどうしているんだろうとか、調べて、尚かつ自分で体験してやっていくことによって、そういう伝統が自分の知識となったり技術となるんですよ。それすごい重要かな。
石の組み方一つも、7回転がしてどうハマるかっていうのも自分でやってみる。漆喰も言葉は知っているけど、じゃあ何を使ってどうやって作ってるんですかって。
自分で薪で火起こして、海藻買ってきて海苔たいて、石灰を混ぜて麻をつなぎで入れるとか。
ワダ:
全部のプロセスを自分で体験していくとし、知恵になっていくじゃない。
熊崎:
根っからの職人なんですよ、モノづくりが大好きだから。だから、そこを簡単なキットで済ませちゃうと一番面白いところがない、それに高いし。
ワダ:
美味しいところ持って行かれて・・・笑
熊崎:
そう。なんのために人間の知識と技術とそのために使う体力が必要なの。みんなそんなことやってる時間ないんですよね。
ワダ:
うん。何に使ってるんだろうね。
熊崎:
あまり否定とかしたくないけど、会社って、特に日本の会社ってすごく拘束するよね。でも僕はそうじゃなくて、何もサボろうとは思わなくて、自分なり会社にノルマがあったらそれ以上求めなくていいんじゃないのって。ノルマを達成したらそれを5時間で達成する人と3時間で達成する人がいたら、3時間で達成した人はそれで帰っていいんじゃないのって。そうやってみんな時間を作っていければいいと思う。同じように24時間しか与えられていないのに会社はその時間をすごく拘束するでしょう。できない奴はしょうがないよね、残業してどんどんやっていくしかない。
でもできる奴は、そこに向上心もあって、やる気もあって集中力もあってできるんだから、そこは昇級とかじゃなく時間を還元してあげたらいいなって思う。ぼくはそういう時間を自由に使えるから今の仕事は心地いいですよね。
波に合わせて、今日は波があると思ったらそこに合わせて。別に9時〜17時に働かなくてもいいんですよ。朝の4時に起きて、みんなが寝静まっている間に働いて、みんなが起きる頃にサーフィン行って帰ってきてもいいんですよね。
ワダ:
普通の会社っていう仕組みだったら、それがなかなかできないからね。
熊崎:
うん。だから、いつも波いい時にサーフィンしているから、クマさん何やってるんだろうって思ってるかもしれないけど、決してサボっている訳ではなくて、自分でコントロールしている。
でも、コントロールできないのは致し方ない部分もあるんだろうけどな。過剰な部分も多いですよね。日本の会社社会の拘束はダメだな・・・
ワダ:
クマさんのライフスタイルを、いろんなかたちで知る人がいて、そんな姿を見たら感動すると思うし、素敵だなって思う。そうやって生きたいと思った時に、今までの経緯を聞くと、最初からアウトローで生きて、全部自分でやってきて、結果としてここにあるっていう風に見えるかもしれない。つまり、クマさんじゃないとこんな風にできないのかなって感じる人がいるかもしれないんだけど、どう思う? 逆に、そういうの望まないかもしれないし。生き方をパッと変えてやるかやらないかだけなんだろうけど・・・
熊崎:
自分が若いころ、後ろを見た時にこうなりたい、ああなりたいっていうのはあるけれど、それは絶対にその人をまるまるコピーしたいわけじゃない。
この人のこういうところいいな、あの人のああいうところいいな、俺はここまでできるなって。やればできるよ、ずっと思ってたら夢はかなうよって言ったってかなわない時あるじゃないですか。でもそこで自分はああなりたい。こうなりたいな、ここは排除していいなっていって、自分のライフスタイルを形成していけばよくて、同じようにやる必要なんか一切ない。なんで同じようなことしたがるのかなとか。
あと羨む必要もないね。人のこと羨ましく思うのも茶道では絶対だめなんだって。それはすごく心の淋しいこと。羨ましがるって。だってその人はそこに至るまでやってきたんだから。
ワダ:
羨む人も自分の人生振り返れば、やってきたことしっかりあるからね。そこをベースにまた考えればいいわけで。
熊崎:
そう、羨むんじゃなくて、自分はこのやり方でこういうふうにやっていこうって、人の人生から参考にするのはいいと思うけど、同じである必要はないよね。
ワダ:
やっぱり結果だけをすぐに作りたがるとかね。出来上がったものを買う的なね。
熊崎:
ああ、それデンジャラスかも。過程ですよね、大切なのは。だから、ここも10年前に見る人と今見る人じゃ全然違うと思うし、今ある程度出来上がってきていて、いいですねなんて言うけど、でも見る人が見たら、ここすごい仕事いっぱいなんだよね。草刈りしたり、大工したり、解体したり・・・
ワダ:
常に何かやっているよね・・・笑
熊崎:
それが仕事なんですよ。どっちかといったら、ちょっと趣味を越えちゃっている。ということは仕事だらけなんですよね。そういう仕事もすべて急いで結果出そうと思ったらダメなんですよね。だって手間をかけることを楽しみながら仕事してるんだから、急いじゃだめなんですよ。
ゆっくり手間かけないと。
ワダ:
深いね〜!
熊崎:
木を伐る時には刃物をゆっくり研がなきゃダメなんですよ。そっから始めなきゃいけない。すごい仕事量の中で、毎日ギリギリまで働いて、例えば3か月前を振り返った時に、少しだけど何か出来上がっているのが僕の言うスローライフなんですよね。
都会で疲れた人たちが田舎に来てのんびりできる、そういうスローライフなんか全然求めていなくて。都会の生活の方がラクですよ。拘束された時間内でサボることができるじゃない。こっちはサボったぶん先に進まないんだから。
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自然を味方につける暮らし方

ワダ:
クマさんにとって大切なことってなんだろうね?
熊崎:
自然あっての生活っていうのが、すごい自分の中で強くて。波乗りもそうですよね。潮の動き、風の向き、うねりの向き、そういった物を把握しながら、月の動きで動いていくと、たまに恵みの波がやってくるっていうのと一緒なんですけど。こういうパーマカルチヤーチックな生活もそれと一緒で、やっぱり自然を敵にはできないですよね。自然を敵にして草刈するんじゃなくて、植物の特性を感じながら作業していくとラクになるんですよ。
ウチにマンゴーの木やバナナの木、みかんの木、いろいろな木があるけど、全部剪定の時期が違っているのがそうだよね、特性なんだよね。
この時期に剪定をしてあげて、この時期に力をつけてあげて、花粉が飛ばないように何らかの処理をしてあげる。そういうのはそれぞれの植物が全部違うじゃないですか。それは四季、暖かくなったり寒くなったりっていう自然の中でその時期が決まってくるから、それを把握して。こっちの都合で待ってはくれないから、向こうの都合でこっちが動かなくちゃいけない。サーフィンも一緒でしょう?
ワダ:
そうだね。
熊崎:
こっちの都合で行ったって、いつも波があるわけじゃないんだから。農業もそうだし、魚釣りだってそうですよね。
こっちの都合で動いたって魚がいつもそこにいるわけじゃなくて、魚の動きを予測して、そこに行って魚がいるから釣れるんですよ。そこは生活していくうえで、すごく大事にしたいところ。
そういう意味でも、最近は、もっといろんなフィールドで自然を知りたいっていう欲がすごく強いですね。自然がわからないとサバイブできないですよ。人間はもともと。
今はそれをいろんな情報や都会生活は排除して成り立ってるけど、根本、人間はそれがないと生きていけないじゃないですか。誰かがそれをやってくれてるからいいわけであって、じゃあ自分が災害の中でポツンと電気もなくなった中に立たされた時に、サバイブできるかっていうと、自然の動きを理解できる人の方がサバイブ力は強いわけですよね。そういう強さは持ちたいなって常に思っていて・・・
ワダ:
なぜ、そんな風に感じるんだろう?
熊崎:
僕にとったらそれが動物なんじゃないかなって思う。自然がなかったら食べ物も得られないし、地球の生活が全て自然で成り立っているのに、そこを無視しては生きていけない、生き残れない。
自然がこれだけ悲鳴あげても、みんなやめないんだから。
もちろん僕だって、クルマも運転しているしそれを壊している部分はあるんだけど、生き残る術を自然から教わっていきたいなというのと、この手の生活はそれを知れば知るほど、自分の体が楽になるよ。自然に逆らって何かをするっていうのはすごく大変なんですよ。カレントに逆らってパドリングするのもすごく大変、でもカレントを味方につけたらすごくラク。
ワダ:
うん。
熊崎:
草刈も今の時期にやっておけばラクなのに、一週間後に成長した草を刈るのはすごく大変、倍の労力がいる。倍疲れることしなくてもいいじゃない・・・
でも、自然を知っていればそれをしなくていいんですよ。その知識の幅をたくさん拡げていきたいんですよ。波乗りっていうのは海の波が割れる。結局、うねりが波となって割れてショアにたどり着くまでのほんの一部しか知らないわけですよ。でも、外洋を知りたいから漕ぎ出してみよう外洋ってもっとすごいうねりがあるし、もっと違う形で海が動いている。その海の動きを知っていれば、いちいち動力を使わなくても、漕いで隣の島まで渡れるんだ。新たな喜びなんですよ。
そこでフィールドをただ拡げて、山はどうなんだろう、川はどうなんだろう、それを知りたい欲がいま自分に生まれている。それを次のステップにしてみても面白いかなって、すごく思い出しているの。
滝ってなんだろう、山の天候ってどれだけ海の天候と違うんだろう、でもつながっっている部分もあるんだろうなとか。
ワダ:
サーフィンはこれまで一通り味わい尽くした。そういう意味で、まだ新しい未知のフィールドっていうのが出てきたんだね。
熊崎:
そう、その未知のフィールドが自分が生まれ育って、自分があんなに嫌いだった日本に実はあったんだって。
海外にばっかり目を向けていて、全然内を見ていなかった。世界に誇れる山って日本にまだこんなにあるんだって。文化もこんだけ残ってるんだって。
これゼロになる前に、自分の知識として取り入れていきたいし、できるなら、これを次の世代に教えていきたいなって。
本で教わるんじゃなくて、人から人へ、手から手へ渡っていけばいいなって思うんですよね。もし若い子から「僕自然の中でサバイブしてみたい、爺、どうすればいい?」って言われた時に答えられるようなお爺ちゃんになりたいなって思うんですよね。それはもう理屈じゃないもんね。
理屈ではだいたいのことはわかっても、実際それをやったか、やらないかって大きな違いだから。実際にあなた本当に自分の手で海を渡ったんですか?そんな大きくなくてもいいですよ、この草自分で刈ったんですか?この機械自分で直したんですか?この家自分で建てたんですか?自分で建てたから言える訳だし。そこにたくさんの失敗があったから、失敗しない楽な道ってこうなんだよって。
ワダ:
その中から本当に自分自身の智慧になるし、やっぱり読みかじりの知識とかテレビ観てやった気になった、どこか行った気になったとか。それで明日また仕事に出かけるみたいな生活って、消費するだけになっちゃうってことだよね。
熊崎:
きっかけだったらいいと思うんですよね。テレビとか雑誌とか本とか。僕もきっかけが欲しい時は本をむさぼり読むし。でもそこから先は一歩やるかやらないかっていうのは大きいと思う。
ワダ:
行動するかしないかだよね。
熊崎:
もっともっと行動して欲しいなっていうのは、新しい次の世代の子達に願うんだけど。
この頃すごいジェネレーションギャップなんだな。ゆとり世代って、そうなんだ、やりたくないんだって。ちょっと寂しくなるけど、俺もオヤジのいっていること、その時はわからなかったからな。
ワダ:
それはあるよね、今の若い子たちって言えないよね。彼らが次の世界を作って行くときには、彼らなりにまた違う形で、同じように振り返ってみればっていうのがたくさん出てくるだろうし、見た目が違うから・・
熊崎:
でも今思うと小さい頃から何か作ったり、想像したりっていうのがすごく好きだったなって思う。
プラスティックの竹とんぼじゃなくて、お父さんが竹をナイフで削って作った竹とんぼに感動してたなとか。
ワダ:
うん、そういうことも知らないもんね。
ナイフもケガするから触らせない。ケガするもんだから、切ってみないと痛さわからないものだしね。そうしたら気をつけて使おうって気になるだろうし。そういう体験が本当に今は自分から求めていかないとなかなかできないもんね。全部できあいのものばっかりで。
熊崎:
貪欲になっても、それが人間の基本だからいいんじゃないかなって思う。それとこの国の農業について、 農業って自然の力を最大限に使って、小さな場所でたくさんのものを作るっていうのが究極なんです。  大量生産の農業はいらないから、家庭の小さな庭で極端な話、このスペースが30センチ四方の土を入れることによってたくさんのトマトができればいい、一本できればいいでしょう。そのためにはどういう土を作ればいいかとか、どういう肥料が必要なのかとか、トマトの性質とかね。
ワダ:
そういうことってのは、生活にとても身近なこと。
熊崎:
だって食べることだからね。
ワダ:
昔の人は普通に知識として、知恵として持っていたからね。
熊崎:
持っているんですよ。みんなのおじいちゃん、おばあちゃん、ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんはやっていたんですよ。戦前の日本は。
ワダ:
せめても、そういったものを取り戻したいね。
熊崎:
そういったことに興味を持てば、やってみようってなるじゃない。
人ってどうやって木の家を建てていたんだろう、ああこうやって木を組んでいくんだ、組むためには何の道具を使うんだ、ノミとノコギリ。ああそうか。で、実家行って引き出し開けて、サビサビのノミ見つけて、研ぐってどういうふうに研ぐんだろうって。だから、常に“こうするためにはどうするんだろう”って。
ワダ:
この家もそういう感じでひとつ一つだね。
熊崎:
そういった感じで一つ一つですね。
ワダ:
別に大工さんの修行に入った訳ではないんだよね?
熊崎:
ないです。僕修行に入ったらやってないです。そういうの大キライだから・・・笑
ワダ:
笑 じゃあ、木の組み方もどうなってるんだろうっていうところからきたんだ。
熊崎:
うん。だから一番最初に言ったように、最初は大きなデザインが頭の中にあるんですよ。それを形にする過程で個々の問題に必ずぶつかるから、そのぶつかった時に予備知識なんかもいらなくて、ぶつかった時に考えて解決策を見つけ出して、解決すればそれで一歩進むから、じゃあ次に一歩進んだ時にまたぶつかる訳ですよ、何も知らないから。それをどうすればいいんだって。何も最初からこれをドーンて建てる必要はなくて、そういう必要がある人であれば、職人さんに頼めばいいだけの話ですよ。
ワダ:
これからのクマさんの10年はどんな感じになるんだろう?
熊崎:
うーん、まだあと10年はガムシャラに働きますね。働くっていうのはガラスの仕事ももちろんなんですけど、さっき言ったことが、僕の全ての仕事だから、それをガムシャラにやって行きたいなって思うのと、少しずつ熟していきたいって思いますね。
ワダ:
熟すっていうのはどういう感じ?
熊崎:
なんて言うんだろうな・・・50代なら50代なりの形。結局、50年生きていけば、50年人とのつながりができたりするわけじゃないですか。こうやってロビンさんに会うのもそうだし。そういう付き合いを大切にして、なんか一歩先のことができたら面白いなって思うの。
この頃思うのは、例えば、ガラスの仕事が僕の仕事の中心なんだけど、今はガラスを作るので一生懸命なんですよ。それで、ここまできたんですけど、でも何でこのガラスを作るかって言ったら、僕にとって究極の仕事は百姓なの。でも百姓ってすごいたいへんで、土掘ったりとか、雨風の時も畑に出て何かを作るとか、もちろん建築もそう。基本雨風をしのぐものが建築なんだけど、でもそれだけじゃつまんない。そこに何かきれいなモノがキラキラしていて、建物内に生活のエッセンスになって、そこで、ガラスの光を見て、ちょっとほっとできる時間があるとか、そういうことって、現代の生活にはあっていいと思うのね。
ワダ:
うん。
熊崎:
それを提供したいから、自分でオリジナルのデザインのものを考えて、人がかわいいって言ってくれたり、素敵だって言ってくれるものを作っていきたいなって思って始めたんだけど、本当は透明なガラスでいいわけですよ。外が見えて、雨風がしのげるもの。
だけど、さっき言ったように、ちょっと色が入ったりデザインが入ったりすることによって、オシャレな感じになるでしょう。それを、建築の中に取り入れてもらいたくて。だから今まで一生懸命作ってきたんだけど、これからはもっとそのガラスの使い方をトータルにアドバイスできるような形にしていきたいなと。
ワダ:
建築のグランドデザインかな・・
熊崎:
多分、建築屋さんが大きなグランドデザインを作ったとしたら、その開口の部分。この家の北がどっち、南がどっち、太陽が東から上がって西に沈んでいく中で、その家の光の採光を考えながら、ここにこういう開口を作ってそこにガラスを入れることによってガラスが120%光るようにしてあげたい。そういう全体的なデザインができていったらいいなと思う。
50代はそういう形で、一歩先に進んだステンドグラスを紹介していきたいですね。
個人的には、もうちょっと大きな自然を見てみたいなとも思ってます。
ワダ:
それは御岳、山の方向?
熊崎:
そっちも行ってみたいし、海も、もうちょっと向こう。
ワダ:
外洋に出るってこと?・・・笑 例えば、そのための道具として、今までは家を作っていたけど、船を作ってみたいとかね。
熊崎:
船って言ってもセイリングカヌーだったり、そういうレベルからなんですけど・・・
ワダ:
まだまだいっぱいやりたいこと出てきそうだね・・・笑
これからの10年、僕も楽しみにしてます。
熊崎:
また、いろいろと一緒に楽しみましょう!
* 制作協力 : 藤田明子
facebookコメント ご感想などご入力ください。
【取材後記】

久しぶりに影響を受ける男(ひと)に会った。僕はここ数年、波乗りが楽しくてしょうがない。歳も取って、若かりし頃の体力もなくなりつつあり、パドルして、サクッと立てればいいけど、よいしょって感じのなんだかキレの悪いサーフィンになりつつある今日この頃、それでも若いもんには負けちゃおれんとばかりに、元気な若者が乗るような板に乗ってた。でも、クマさんに会って、クマさんの一言で、自分に素直になって、サーフィンのスタイルを180度転換した。そのくらい影響を受けた。(そこだけ〜じゃないよ。。。笑)

クマさんの人としての魅力は、何よりも普通の人が歩まない、自分の道をずっと歩いて来た人だからだろう。普通の社会から見れば、アウトローの道。サーフィンと旅を通して、自然や波と対話しながら生きる人たちと交流し、そこには、波という自然と旅で出会う人たちがいて、それは結果的に、自分との対話をもっとも要求されるものになったのだと思う。

クマさんの人柄、オーラは、いつもマイペースだ。他者を受け入れ、自分や家族、仲間を大切にして、自然をリスペクトし、自然と調和しながら生きる。社会の中で生きるという意味では、不器用なのかもしれないけれど、本質を生きるという意味では、なかなか真似のできない、とても器用な生き方だと思う。

落ち着いてて、ちょっと脱力な、リラックスした話し方は、きっとクマさんが体験してきた人生からもたらされているに違いない。

ちょうどクマさんが、子供たちの部屋をつくるために、柱の木組みを作っていて、そんなクマさんを見ながら、僕は「クマさん、働いてるの?」って冗談言ったら「これが僕の仕事ですよ」って答えた。「普通の人は、働いてお金を稼いで、それで職人さんを雇うでしょ・・・僕は、それを自分でやるから、自分に発注しているようなもの。だから、これが仕事なんです。僕には仕事がいっぱいあるんですよ」

クマさんの言葉はシンプルで、とても心に響く。サーフィンは波に乗れてなんぼ。それだったら、板も乗りやすい方がいい。だから、もっと分厚い板に乗った方がいいよ。。。と。分厚い板が曲がらないなんていうけど、ぜんぜんそんなことない。1本でも数が乗れて、楽しい方がいいでしょ。まったくその通りだ。

庭でもそう、最初からお金かけてビチッとできてなくても、30センチ四方の芝生を一枚買ってきて、ゆっくり育てれば、10年も立てば、全体に拡がる。庭木でも苗木を安く買ってきて、ゆっくり育てれば、自分の思うようなカタチに育てることができる。ゆっくりでいい。作る、育てる楽しみがある。

クマさんは、庭を造成し、石組みをして、家を自分で建てて、畑もやる。パーマカルチャー・・・自給自足的な暮らしの部分も取り入れ、持続可能な生き方を実践している。

お金はあるに越したことはないけど、自分でできることを忘れて、せっかくの面白さを人に与えて、お金を払っている。そう考えたら、働くことって何かもう一度考えたくなる人もたくさんいるんじゃないだろうか。

クマさんは忙しい毎日を送っている。サーフィンもしなくちゃいけない、家も建てなきゃいけない。アーティストとしてステンドグラスも作るし、畑仕事も釣りもしなきゃいけない。子供と遊ばなきゃ行けない。自分がやりたいことをやるっていうのは、本当に忙しいもの。のんびりなんてしてられない。でも、ワクワクするから元気だし、毎日が充実している。

自分らしく生きる。クマさんも現実的な生活はみんなと同じ、いろいろと大変なこともあるだろうけど、自分流を貫くことは素晴らしいこと。僕もあらためて、自分流で行こう。自分を信じていこうって、クマさんと会って思えた。そして、今年から、僕のサーフィンのスタイルは異次元へとシフト。いろんな意味で面白くなってきそう。また、クマさんに、そして、奄美の海に会いたくなったら飛んでいこう。クマさん、いい刺激をありがとう!

熊崎 浩 プロフィール

ステンドグラス・アーティスト

色ガラスを使い独自のスタイルで、サーフシーンを表現。

静岡県出身。20代を湘南で過ごし、さまざまな湘南文化に感化を受ける。

その後オーストラリアに渡り、Sydneyにある老舗North Shore Stained Glassのヘッドレッドライター(製作責任者)として、欧米伝統工芸であるトラディショナルステインドグラスの製作・施工するかたわら、自身の工房にてSurf & Natureをテーマに作品を作り続ける。

現在 奄美大島へ移住。青くきれいな珊瑚の海と自然が生きる緑の山に囲まれたトロピカルフルーツ&ベジタブルガーデンの中に工房とギャラリーを建設中。

波に乗り、土をいじり、自給自足を目指したカントリーライフの中で、生活により親しむステインドグラスの普及を心がける。

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